役割を演じる私たち
学びのメモ。
先日、著明な先生方の鼎談系配信にふと参加したところ、思わず様々な学びがあった。
医師と患者が演じている「役割」についてである。
「役割」ときいて、そういえばと思い出した文章があった。
25セント硬化のように、あなたは常に役割を演じている。だがその役割は、固定されて変わらないものではない。むしろ、あなたは今いる状況に応じた役割を演じている。
(ベンジャミン・ハーディ『FULL POWER』p77より)
この文章に触れた時にはそれほど琴線に触れなかった。しかし今回改めて「役割」という視点で考えてみた時、本質をついたものだと感じた。
私達は「役割」を演じている
私たち医師はともすると、患者と接している状況では、その患者の疾患や病を判断・理解し、治療するという「役割」があると感じ、そしてそれを演じている。
一方患者は、医師と面談したり診察してもらっている状況では、なにか自分の不調な部分を自分の言葉で表現し訴えるという「役割」があると感じ、そしてそれを演じている。
こういう形で文章にしてみると、画一化されたような感じがして不快に思われる人がいるかもしれないが、これはある種、的を射ているように思う。
私の診療を振り返ってみても、やはりほとんどの時間を、患者の疾患・病に視点を向けている。そして患者の訴えを聞きながら、疾患の診断をしたり、病いに対してみみを傾けたりしながら、ケアを行っている。
いや、それは当たり前じゃないかと思うだろうが、その当たり前を疑ってみる。医師はただ、診察室で疾患や病いと向き合う「役割」を演じる職業なのだろうか。少し医師の「役割」について、掘り下げて考えてみようと思う。
医師の「役割」を疑う
具体的に医師の「役割」を疑って、別視点で考えてみる。
1つは、疾患・病いだけでなく、その人の健康観や人生観、生きがいにふれてみること。これは患者中心の医療の方法でもステップ1として取り上げられており、なんら特別なことではない。ただ、それ故に忘れがちである。
患者の疾患・病いだけに視点を向けることは、患者を病める人というフィルターを通してずっと見ているような気がして、どこか人間的でないような感じがする。3Dメガネをかけたまま一日中生活しているような気分の悪さ。
もっと当たり前に、患者をひとりの人として接して、その人自身に触れてみる。
もう一つは場所のこと。本当に病院・診察室だけが医師のフィールドなのだろうか。このことに関しては、先生がたの鼎談の中で触れられていた。
「医師は病院をとびだして活動しよう」といわれて久しいが、なかなかそれが実現できないことも多い。ただやはり、病院や診察室は特殊な環境である。診察室は特に、医師と患者にそれぞれの「役割」を演じさせる魔力をもつ、演劇の舞台のようなものである。
Healingという視点でみてみると、必ずしも診察室だけで患者は傷が癒えているわけではない。これは先日の勉強会で、藤沼康樹先生が紹介されていた、Healing Landscapeという概念(Miller&Crabtree, 2015)である。Healingのきっかけ、つまり傷の回復のきっかけは、その人の日常生活のどこで起こってもおかしくないのである。
そう考えてみると、診察室だけでなく自宅に赴いて診察する訪問診療、いや、そこも飛び出して、今患者が生活してる場面に赴いて診察するような診療(例えば、患者が今日は本屋にいるのだとしたら、その本屋に言って話をしてみる、とか)は面白いかもしれない。患者の本当の日常に医師も飛び込んでみるのである。
こうやって文字に起こしてみると、すこし臨床がわくわくするものに感じてきた。もちろん疾患の診断・治療は重要な「役割」ではあるが、それに加えて、その人自身の人生に触れながらともに歩んでいく「役割」を、もっと私たち医師は感じてもいいのではないかと思った。