自分の手元に言葉を取り戻す。
AIをつかえばきれいな文章がすぐに作成できるけれども、生身の自分の手で作った文章を、自分で読んでみるという体験がなかなか減ってきてしまっているので、ここでリハビリテーションも兼ねて文章を書いてみる。中身のある文章のようで、ほとんど中身のない文章なので、トイレにこもってスマホを眺めながら斜め読むくらいでちょうどいい文章です(いや、そこまででもないかも)
ちなみに、音声入力も良いかもしれないが、これはキーボードで打っている文章である。書き言葉は書き言葉。話し言葉と書き言葉は、考えるプロセスも、表出される感情も異なるように思う。パロールとエクリチュール、どちらが話し言葉でどちらが書き言葉だったか、いつもちょっと悩んで、「あ、パロールが話し言葉だったかな」とか考えている間に、「まぁ、話し言葉って書けばいいか」とか思ってしまう。なんだろう、まぁ日本語で書けばいいかって思う。
すこし脱線したけれど、とにかく自分の手元に言葉を取り戻す、というのを今月の目標にしてみたい。どうにもこうにも、生成AIが身近になってからというもの、文章を考えて作成するということ自体が、なんだかすべて「作業」になってしまった。自分が何時間も一生懸命考えてひねり出した文章よりも、生成AIが数十秒考えてササッと出してくれる文章のほうが、滑らかできれい。Claudeが出してくれる文章なんか、もうそれはそれは完成度の高い文章をだしてくれるわけであります。
そうなってくると、なんか文章を考えて書くのも、ちょっとアホらしくなってくる。ただでさえ忙しい毎日で、そこまで文章に個性やクオリティを求められていないとき、生成AIがおおよそ80点近い文章をササっとだしてくれるのだから、使わない手はないだろう。「生成AIで生産性UP!」と吹聴しているSNSでの投稿とかみていたら、そりゃあ使っていないと時代に取り残されている感覚にもなるだろう(今ならClaude Fable5がサブスク範囲内で使えるから、期間中に一生懸命使っているのだと思う)。
私も生成AIは多用している。今となってはなくてはならなくなってしまっている。だけれど、以前よりも自分で文章を書く機会が明らかに減ってしまった。自分の言葉で語ることが減ってしまった気がする。いや、言葉で語るといっても、話し言葉は変わらなくても、書き言葉が減ってしまったのかもしれない。書く頭が衰えてきたというか、怠けてきてしまっているというか。このままで本当にいいんだろうかという焦りすらある。
自分の手元に言葉を取り戻したい。下手くそでもいいから自分で文章を書くようにしてみる。自分のスタイルを改めて見つめ直してみたい。メルロ=ポンティ曰く、文章のスタイルにはその人の生き方も表現されている。そうだとしたら、自分の文章がどんな文章なのか、自分で書いてみなければわからないし、自分の文章ににじみ出てくる自分の考え、生き方にも触れることはできない。
生成AIによる文章の整形・メイクもナシでいい。すっぴんの文章を書いてみるのである。好き勝手に書いてみたらいいんじゃないかとおもう。下手くそでもいいから、自分の言葉で文章を書く。
こんな駄文でも、自分でしっかり書いてみると、頭のなかが結構すっきりしてきた。明らかにインプット過多になっていたのだと思う。生成AIはアウトプットのようにみえて、自分にとっては多分ずっとインプットなのだろう。
こんな文章を書こうと思ったのも、実は臨床哲学の先生が自分の言葉で綴った文章を読んだからなのでした。ちょっとした憧れとともに、「自分も試しに書いてみたらどうか」と思ったり、ちょっとした高揚感もあって、色々書いてみたのでした。
これでざっと1500字くらい。今日はこれくらいに。
【Reflection】「~のために」や「~すべき」からの逃走
昨晩、急に疲労感や倦怠感に襲われ、気分の落ち込みがあった。実はこういったことは、これまでにも時々あった。頻度としては月に1~2回くらい。別に仕事終わりの時とは限らず、午前中のふとした時に感じることもある。
「疲れ」という言葉で片付けられるかもしれないけれど、何かそれだけではない気がした。あーだこーだと僕が話をしたら、妻が「スマホを触るのやめたらいいんじゃない?」と言った。「仕事のこととか、勉強のこととか、ずっと気にして情報収集したりしているからなんじゃないの?」と。それをきいて、なんだか妙に腑に落ちた。言われてみたら、確かにだいたい急な疲労感や気分の落ち込みをきたすときは、スマホでSNSをみたあとが多かった気がする。
昨日、夜間のミーティング前には倦怠感が強く、気分の落ち込みも強かった。けれど、いざミーティングがはじまったら段々と気力がわいてきた。この変化はなにか?なにが違ったのか?妻からの指摘も踏まえると、「今ここに生きているかどうか」の違いだったように思う。ミーティング中は、今ここにいるメンバーとの対話やディスカッションに集中していた。
なかなか抜けない自分の癖が、実績を残す優秀な他者と常に比較してしまうこと。SNSで、尊敬する皆さんの発信をみて、「こんな方法があるのか!やってみよう」とか、「こんなことを頑張ってやっているんだなぁ。自分も◯◯すべきだ」とか、「◯◯のために、これから頑張ろう」とか、「~のために」や「~すべき」といった事柄を、どんどんと自分の中に溜め込んでいってしまっているのだと思う。
「~のために」といった手段・目的の連関や、「~すべき」という規範が増してくると、目標の波、ないしはタスクの波にのまれてしまって、動けなくなってしまう。未来にばかり目が向きすぎて、今ここにある自分をいきられなくなってしまっている。はじめは自分の好奇心から取り組みはじめたことも、過剰な「他者との比較」によって、「~のために」や「~すべき」という事柄が増えてくる。そのとき、目標やタスクの波にのまれてしまう。
手段と目的の連関から逃れるような取り組みを、日常生活のなかに組み入れようとおもう。はじめは意識したほうが良さそう。難しいことをするのではなく、ただただその行為や実践を楽しむ。妻と話していて、自宅の周りを散歩したり、料理したり、そういった行為そのものを楽しむ機会が、今の自分の生活にもう少しあれば良いのかもとおもった。「~のために」からすこし距離をおいて、行為そのものを楽しむ。
目標設定は、なにかを達成したいとき、何かを成し遂げたいとき、何かを身につけたい時には、もちろん有用だろう。自分もそうやって生きてきた。ただ、ちょっと今の自分は、目標を設定しすぎたのかもしれない。仕事や立場上、やらないといけないタスクや義務からはいくらかはどうしてもあるけれど、その他のところはもう少し自由にやってもいいかも。
アウトカムベースの生活は、今の自分にはキツい。ハイパーな方々は、ぜひそれで頑張ってもらったらいい。今、自分がやりたいこと、やれそうなことを、やれる範囲でやっていってみて、あとから時々、「こういったことができるようになったんだなぁ」とか、「こういったことをやれたんだなぁ」とか振り返ってみて、余裕があれば改善ポイントをみつけたり、目標をたててみたりするくらいにしようとおもう。
……といいつつ、こうやって言っていることも、また「目標設定」とかいうとちょっとキツイから、頭の片隅においておくくらいにしておく。頑張りたいと思ったら、その時は思いっきり頑張ればいい気がする。
2026年はこんな感じでいこう。
ひとまず、SNSみる時間は減らす。便利だけど時間泥棒。
論考:『コロナ・パンデミックが変容させた「活動的生活」と公的・私的領域』
0.はじめに
2020年3月11日、世界保健機関(WHO)は新型コロナウイルス感染症パンデミック(以下、コロナ・パンデミック)を宣言した。コロナ・パンデミックは、我々の生活を一変させ、人と人との「つながり方」に関する価値観に多大なる影響を与えた現代の歴史的出来事である。
本稿では、ハンナ・アレントが『人間の条件』において提示した、他者との関わりの中で成立する「行為」という活動、それが展開される「公的領域」、そして「私的領域」のあり方に、コロナパンデミックはいかなる変容をもたらしたのかについて論じる。
1. コロナ禍における「労働」の優位と「行為」の危機
アレントは、『人間の条件』において「活動的生活(vita activa)」を三つの基本的な活動に分類した(アレント, 2023, pp.24-25)。第一は「労働(labor)」であり、これは人間の生命維持、すなわち生物学的な必要性に直接関わる活動である。第二は「仕事(work)」であり、これは世界の永続性を担保する人工物(道具、建物、芸術作品など)を製作する活動である。第三は「行為(action)」であり、これは他者との複数性(plurality)の中で、言葉と行いを通じて自己を開示し、何か新しいことを開始する活動である。アレントは、この「行為」こそが、人間を最も人間たらしめる活動であり、「公的領域」においてなされるものと考えた(アレント, 2023, p.53, p.82, p.322)。
2020年に起こったコロナ・パンデミックは、我々が生きる世界そのものへの認識を揺るがした。バトラーが指摘するように、ペストやスペイン風邪といった過去のパンデミックとは異なり、コロナ・パンデミックによって「われわれは、世界を綿密な調査の対象として再認識するようになり、世界は心配の種であると肝に銘じるようになり、いまの世界は予想とは違ったものであることに注目するようになり、世界は突然新たな不透明性を帯び、新たな制限を課すと考えるようになる」(バトラー, 2023, pp.22-23)。コロナパンデミックによって、我々が住む世界の安定性や永続性が、いかに脆弱であるかが露呈されたと言える。
このコロナの脅威に対応するため、社会は否応なしに生命維持を最優先する体制へと一時的に移行した。パンデミック下では、感染拡大防止という生物学的な必要性が他のあらゆる価値に優先された。その結果、「不要不急」という言葉が日常的に使われ、我々は自らの行動が生命維持にとって必要不可欠なものか否か、つまり我々の行動はアレントのいう「労働」に当てはまるのかどうかを、常に自問自答せざるを得なくなった。
ここで「不要不急」とされたものの多くは、アレントのいう「行為」の領域に属する活動であった。例えば、友人との会食、文化的な集い、あるいは単に公共の場で他者と偶然に出会うこと。これらは、生命維持という「労働」の観点からは二次的なものと見なされ、厳しく制限された。アレントにとって、人間が単なる「労働する動物(animal laborans)」(アレント, 2023, p.53)に陥らず、意味のある生を送るためには「行為」と「公的領域」が不可欠であったが、パンデミックはまさにその領域を直撃した。
コロナ禍にジョルジョ・アガンベンが論考のなかで投げかけた「生存だけを価値として認める社会とはいったいどんな社会だろうか」という問いは、この状況を鋭く突いている(大澤・國分, 2020, p.79)。感染症対策の名の下に、政治的・社会的な生(ビオス)が、単なる生物学的な生命(ゾーエー)、アガンベンのいう「剥き出しの生」へと還元されてしまう危険性が顕在化したと言えるだろう(大澤・國分, 2020, p.94)。
2. 「公的領域」の解体とオンライン空間への移行
アレントのいう「公的領域」とは、人々が「行為」する場であり、互いの複数性を認め合いながら語り合う空間、いわば「共通世界」である(アレント, 2023, p.85)。それは、古代ギリシャのポリスに象徴されるように、人々が「私的領域」の必要性から解放され、他者の前で現れる場所であった(アレント, 2023, p.66)。
しかし、パンデミック対策として導入された「ソーシャルディスタンス」や「ロックダウン」は、この物理的な集まりを根本から不可能にした。人と人が直接対面し、同じ空間を共有することが制限されたことは、アレントがもともと想定していた物理的な「公的領域」の解体を意味していた。そして、この物理的な「公的領域」の代替として急速に台頭したのが、オンラインミーティングツールをはじめとしたオンラインコミュニケーションである。パンデミックを契機にこれらの技術は爆発的に普及し、会議や議論、さらには交流までもがオンライン上で実施されることが常態化した。バトラーが「パンデミックによって新しいグローバルな相互連関と相互依存へと開かれる」(バトラー, 2023, p.16)と述べた背景には、この技術的進展が大きく寄与している。
だが、このオンライン化された「公的領域」は、アレントがおそらく想定していたとおもわれる「公的領域」とは決定的に異なる性質を持っている。それは身体性の欠如である。アレントは、「現れの空間は、複数の人間が一緒になって言論や行為を行うところなら、どこにでも出現する」(アレント, 2023, p.354)と述べているが、インターネットが世界中に張りめぐらされ、オンラインコミュニケーションが主流となった現代のような状況を、アレントは当時、どこまで予想できていただろうか。オンラインミーティングでは、映像と音声は伝達されるものの、同じ空間を共有し、互いの身体的な「現れ」を直接感じることはできない。実際に触れること、同じ空気を感じるといった感覚は決定的に欠落している。オンライン上のコミュニケーションは、この「現れ」を不完全なものにする。人と人とが文字通り「触れ合う」機会がなくなっていった先に到来する社会は、人間的な自然に反するディストピアだと言えよう(大澤・國分, 2020, p.25)。
加えて、オンライン空間での「行為」は、合理性や有用性に支配されやすい傾向がある。なぜなら、オンライン空間はその設計上、なんらかの目的のために最適化された空間だからである。たとえばオンラインミーティングは、なんらかのテーマについて議論することが目的となっており、会話の開始と終了が設定されている。そして直接対面での会話が持つ偶発性や予測不可能性、あるいは結論の出ない「語り合い」そのものの価値は後退し、効率的な情報交換やタスク処理の場となりやすい。その背景には、「すべてを目的に還元する論理」がはたらき、「目的をはみでるものを許さない傾向」があり、そしてその傾向はコロナ・パンデミックを契機に加速した、と國分は指摘する(國分, 2023, pp.145-146)。「どこかに集合して対面で会話を行うことに意義を見いだせなくなってしまっている」という価値観の変化は、裏を返せば、「行為」の価値が合理性や有用性によって測られるようになったことを示している。しかし、合理性や有用性が強調されるときに「行為」は、アレントが述べていた本来の意味での「行為」、つまり他者との複数性の中における自己開示や何か新しいことを開始する活動から遠ざかっていくだろう。
3. オンラインミーティングツールの普及により加速した「私的領域」の侵食
アレントは『人間の条件』のなかで、「公的領域」と対比される「私的領域(private realm)」の重要性も説いていた(アレント, 2023, pp.104-106)。「私的領域」は、生命維持(労働)と休息の場であり、公的な視線から守られるべき場所であった。「公的領域」で「行為」を行うためには、まず「私的領域」で生命の必要性が満たされていなければならない。
しかし、パンデミックによるオンラインミーティングツールの普及は、この公私の境界線をこれまで以上に曖昧にした。SNSの普及により常時オンライン空間と接続されている感覚はパンデミック以前から存在したが、「いつでも、どこでも」複数の他者と画面越しに繋がれるオンラインミーティングツールによって、本来は公的な視線から守られているはずの家庭という「私的領域」に、公的な視線が行き届くようになった。これは、「私的領域」が本来持っている隠れ家としての機能、つまり生命維持(労働)と休息の場としての機能が無効化されてしまう事態である。「いつでも、どこでも」他者と繋がれる世界は、裏返せば、「いつでも、どこでも」繋がれてしまう世界でもある。時間的・空間的な制約からの解放は、同時に「私的領域」の侵犯を常態化させかねない。他者と「繋がれるのになぜ繋がらないのか」という社会的な要請は、アレントが重視した「私的領域」における休息や内省の権利、すなわち「繋がらない」権利を脅かす。コロナ前と比べてオンラインミーティングが当たり前となった今、私的領域が持つべき隠れ家としての機能はさらに弱まったと言える。
4.おわりに
本稿では、コロナ・パンデミックがハンナ・アレントのいう「活動的生活」にいかなる変容をもたらしたかを論じた。パンデミック下では、生命維持という生物学的な「労働」が最優先され、他者との関わりである「行為」の領域は「不要不急」として危機に瀕した。また、感染対策による物理的な「公的領域」の解体は、オンライン空間への移行を促したが、そこではアレントが重視した「身体性」が欠如している。さらに、コロナ・パンデミックを契機としたオンラインミーティングツールの普及は、これまで以上に公私の境界線を曖昧にし、「私的領域」が侵食されることとなった。このようにコロナ禍は、「行為」の価値だけでなく、「公的領域」と「私的領域」、双方のあり方をも大きく変質させたと言える。
我々はコロナ・パンデミックをきっかけに、人と人とのつながり方について、これまで以上に問い直さざるを得なくなった。コロナ以前の世界に完全に戻ることはないだろう。この変容した世界において、我々は利便性の高いオンライン空間のなかで失われがちな「身体性」の価値や、他者と直接「現れ」を共有する物理的な「公的領域」の意義を、どのように再び見出していくのか。そして、効率性や合理性とは異なる「行為」そのものの価値をいかにして守り、公私の健全な境界線をいかに引き直していくのか。アフターコロナとなった今もなお、我々は問われ続けている。
参考・引用文献
サルトルの「責任」概念と、現代社会における「自己責任」という考え方の相違点について
0. 序論
本記事は、ジャン=ポール・サルトル(以下、サルトル)が『実存主義はヒューマニズムである』で展開した「責任」の概念と、現代社会で広く浸透している「自己責任」という考え方との相違点を検討するものである。一見すると類似しているように感じられる両者が、根本的には異なる考え方であることを、國分功一郎(以下、國分)が『中動態の世界 ―意志と責任の考古学―』増補改訂版で提示している「応答責任」と「帰責性」という区別を補助線として用いることで明らかにする。
本記事では、まずサルトルの責任概念を、全人類への「応答責任」として改めて捉えなおす。次に、現代の自己責任論が、原因を個人に押し付ける「帰責性」の論理に他ならず、個人を社会的な「孤立」へと追いやる構造となっていることを述べる。最後に、これら二つの「責任」概念を比較し、「応答責任か帰責性か」、「孤独か孤立か」という2点において、両者の思想的なベクトルが正反対であることを論じる。
1.サルトルの「責任」概念
サルトルの責任論は、彼の哲学の第一原理「実存は本質に先立つ」から導かれる(サルトル、1996年、p.42)。神や普遍的本性といった、あらかじめ定められた「本質」は存在しない 。人間はまずこの世に実存し、自らの行動を通じて自己を形成していく(サルトル、1996年、p.43)。この何ものにも規定されない選択の可能性こそが人間の自由であり、それは世界に投げ出された人間が自分の一切の行動に責任を持つということの裏返しでもある(サルトル、1996年、p.51)。
この責任は、単に自らの行動の結果を引き受けるというだけではない。言い換えるならそれは、未来に向かって「人間とはかくあるべきか」という問いに、自らの生き方をもって答える「応答責任」としての性格が色濃い。一般に「責任」と単純に日本語訳されることの多いresponsibilityは、國分が指摘するように、本来は「応答(respond)」する「能力(ability)」を意味する(國分、2025年、p.396)。サルトルの思想における責任も、まさにこの「応答」の概念で捉えることができる。その核心にあるのが「アンガジュマン(engagement)」である。個人が何かを選択することは、全人類を選択するということをも意味する、とサルトルは述べる(サルトル、1996年、p.44)。自分の行為は、自分が望む人間像に限らず、全人類がまさにかくあるべきだと考えるような人間像をつくることにつながる(サルトル、1996年、p.44)。このように、サルトルの責任は「全人類をアンガジェする」ものであり、常に他者や社会へと開かれている(サルトル、1996年、p.44)。
この途方もない「応答責任」を引き受ける主体は、必然的に「不安」「孤独」「絶望」という心境と向き合う(サルトル、1996年、p.45)。特に「孤独」は責任と向き合う上で重要である(サルトル、1996年、p.49)。神や既成の道徳といった絶対的な標識は何もなく、人間はたった一人で選択し、その全責任を負わねばならない 。サルトルはこの状態を「人間は自由の刑に処せられている」と表現した(サルトル、1996年、p.51)。しかし、この「孤独」は、一般的に社会からの断絶を意味する「孤立」とは異なる(國分・松本、2023年、p.4)。むしろ、この孤独な決断こそが「アンガジュマン」を通じて全人類と結びつく。一人で下した決断が全人類へのモデル提示になるという点において、孤独な主体は深層で他者や社会と連帯している。したがって、サルトルのいう「孤独」は「孤立」ではなく、連帯への出発点と言える。
2.現代社会における「自己責任」という考え方
一方で現代の日本社会において流通する「自己責任」という考え方は、サルトル的な「応答責任」とは全く異質な論理で動いている。それは、國分が「責任」と区別して論じる「帰責性(imputability)」という概念(國分、2025年、p.399)との近さがある。
帰責性とは、過失を誰かのせいにするという発想であり、行為を特定の個人に帰属させる考え方である 。現代の自己責任論は、まさにこの「帰責性」の論理に基づき、個人の陥った困難な状況の原因を、その個人の努力不足や選択の誤りに還元する。そこでは、社会構造の変化といった、個人の力ではどうすることもできない要因は不可視化される。そして、「自分の意志でやったのだからお前の責任だ」という論理が支配する(國分、2025年、p.398)。國分によれば、このような意志によって根拠づけられる責任は、本来の応答としての責任が堕落した形態である(國分、2025年、p.398)。責任は「負う」ものであり、「負わせる」か「負わされる」ものである帰責性とは区別される(國分、2025年、p.399)。
ただし國分は、「自己責任」という言葉を、責任(responsibility)とも帰責性(imputability)とも区別し、英語で“at your own risk”と表現されるものだと指摘する(國分、2025年、p.404)。それは「何をしても自由です。但し、あとは知りません」という意味であり、「誰も誰にも応答しない世界」が近づいてきている徴候であると、國分は警鐘を鳴らしている(國分、2025年、p.404)。「自己責任」言葉が称揚する「自由な選択」は、個人を過去や周囲から完全に独立した決定源とみなす「行為の私的所有制」の思想に根差しているのである(國分、2025年、p.405)。
このような「帰責性」と「自己責任」の論理は、困難な状況にある人を自業自得と見なすことで、社会や他者が手を差し伸べる正当性を剥奪し、相互扶助の精神を弱体化させる。人々は問題を一人で抱え込み、誰にも頼ることができないまま社会では、必然的に「孤立」を生み出す。これは、サルトル的な「孤独」が連帯へとつながるのとは対照的である。
3.サルトルの「責任」概念と、現代社会の「自己責任」という考え方の相違点
サルトルの責任概念と現代の自己責任論を比較すると、その思想的なベクトルが正反対であることが明らかになる。その対立軸は、「応答責任か帰責性か」、そして「孤独か孤立か」という二つの点に集約できる。
第一に、「応答責任」と「帰責性」の対立軸である。 自己責任論が問う責任は、あくまで過去の失敗に対する「帰責性」である。その関心は、起きてしまった問題の責任を誰に負わせるかという点にあり、原因を個人に帰属させることで問題を完結させようとする。対して、サルトルの「責任」は、未来に向かって「人間とは何か」を創造していく「応答責任」である。彼の関心は、過去の失敗を断罪することではなく、自由な選択を通じて未来の価値を創造していく、その引き受けにあるといえる。自己責任論が個人を過去に縛り付ける後ろ向きの力学であるのに対し、サルトルの責任論は個人を未来へと開く前向きな哲学なのである。
第二に、「孤独」と「孤立」の対立軸である。 サルトルの思想は、選択の主体としての人間に根源的な「孤独」を突きつけるが、それは「アンガジュマン」を通じて全人類との連帯を自覚させるための不可欠なステップであった。 一方、自己責任論がもたらすのは、社会的なつながりや支援から切り離された、救いのない「孤立」である。それは連帯の可能性を否定し、個人を原子化させる力として働く。國分が指摘するように、帰責性は社会正義のために一定割合必要ではある。しかし、帰責性だけが支配する世界は、本来の「責任」、つまり「応答責任」が問われなくなった「責任のない世界」である。そして、帰責性を問うこと、つまり罰することは、必ずしも応答としての責任の生成にはつながらない。この区別を忘れるとき、我々は「自己責任」の名の下に人々を孤立させ、応答の可能性を奪ってしまうだろう。
4. 結論
本記事は、サルトルの責任概念と現代の自己責任論を、「応答責任と帰責性」「孤独と孤立」という対立軸から比較検討した。サルトルの責任が、孤独な決断を通じて全人類に応答する、未来志向の連帯的な責任であるのに対し、現代の自己責任論は、過去の失敗を個人に帰責することで人々を社会から孤立させる、後ろ向きの分断的な考え方である。
もちろん、本稿の議論にはさらなる検討の余地がある。例えば、「サルトルの思想もまた、個人の主体性や決断を過度に強調するあまり、個人の力では抗い難い社会構造の強制力に対する分析が不十分ではないか」という意見も予想されうる。しかしサルトルの責任に関する思想は、個人のちからでは抗い難い社会構造を作り上げているひとつの要因である現代の自己責任論に対して、批判的な哲学的視座を提供してくれているとも言えるだろう。