自考するために重要な「無能フィルター」(「ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論 」)
最近発売されたこちらの本。
4人の執筆者が、「書くこと」の悩みを解像度高く共有している一冊。シンプルにおもしろい。(表紙の絵が、あらゐけいいちさんであるのもまた良い。)
この本を読むと、書くことについて少し気が楽になった。
その中で、気になった一節があったので、こちらの一文をもとに、自分の頭で考えることについて考えてみた。
資料を先に見ておいて書く時には参照しないやり方を、「自分の頭に置いておける範囲に取り扱う情報を制限する」という意味合いを込めて無能フィルターと呼んでいる。
これは「独学大全」が最近ベストセラーとなった読書猿さんの書かれた一節である。
当たり前だが、私たちの頭の中の情報処理・編集能力には限界がある。一度にあつかえる情報量はそれほど多くない。具体的にどれくらい、とは表現しづらいが、それでも変数が10も20にもなってくる複雑系は、難しい。
ストーリーになっているものは、そのひとつひとつを紡ぎ出すことで、順序立てて論理を組み立てていくことができるが、そこで使用される引用やこれまでの理論の数は、やはり限りがある。
たくさんのインプットをしていくなかで、あれもこれもと、勉強したことすべて活用したくなって一生懸命にすべての記録をとったとしても、実際にアウトプットにすべて活用できないのではないだろうか。こうしてこの文章を書いている今も、この本をよんだインプットのごく僅かな部分からしか引用できていない。
読書猿さんは、頭の中の扱える情報数をあえて制限させるような自浄作用を「無能フィルター」と呼んでいる。それほど自分の頭の情報処理能力は高くないんだと、「無能」という言葉で若干揶揄しているが、これは得て妙である。
要は、自分が覚えていること、理解できていることを中心に考え、アウトプットするということだ。
わたしも含めて、よくばってたくさんの情報を処理・処理していけるものと勘違いしてしまうことが多い。それぞれの情報をそのまま転用することすらままならない。ひとつひとつの情報について、自分自身が理解できているのかどうかも定かでないこともある。
読書などのインプット作業の中で、気になったフレーズや内容はもちろんメモしている。ただそれらすべてを活用できるかというと、そうではない。そして、すべてを活用しようと意気込んではならないとも思う。
そこで、何かアウトプットをしていく際、自分のアウトプットの枠組みや論理の骨組みとなるものをいくつかピックアップして、それらを中心に、言葉を吐き出していく。活用する情報は、「無能フィルター」という自浄作用にまかせる。
その求められている文章の内容によっても変わってくるのは間違いない。論文であればこれまでの研究報告に基づいた考察や記載が求められているため、自然と引用文献数は多くなり、しかもその内容には正確性が求められる。そりゃそうだ。学術書も同様である。
ただ、引用文献数の多さと、その文章の考察の深さは必ずしも比例しない。情報という道具が多いからといって、素敵な心打たれる芸術作品ができないのと同じだと思う。そこに自分の考えは投影されているのか? 他人のふんどしで相撲していないか?
自分の頭の中のフィルターを通して、残ったものを使って考える。当たり前だけれども、そういった当たり前を言語化しながら、「考える」ということをもっと考えていきたい。こうして書いたこの文章も、果たしてちゃんと自分の頭で考えられただろうか?