「読む脚力」が衰えている。
とある勉強会で、批判的吟味や論理的思考に関する話題があがり、そこでオススメされていた一冊を購入しました。
かなり頭を使いながら、じわりじわりと読んでいます。
オンラインでミーティングをする機会が増え、議論を交わすことも多いと思います。私は意見を述べる際、頭に思い浮かんだことをできる限り論理的に組み立てながら話しているつもりですが、そもそも「論理的」ってどういうことなのか、正直わかっていませんでした。
論理力とは、言葉と言葉の関係をとらえる力であり、コミュニケーションのための技術、言語能力の一つ、「読み書き」の力であると述べられています(本書2ページ)。
考えをきちんと伝え、伝えられたものをきちんと受けとる。思考の結果を、できる限り一貫した、飛躍の少ない、理解しやすい形で表現する。そこに論理が働く。(本書2ページより転載・引用)
この本には様々な例文が掲載されており、その例文を適切に読み解くトレーニングが、序盤に設けられています。そして、文と文の間の接続関係を適切に読み解くために、ゆっくりと読むことが強調されています。
この「ゆっくりと読む」というのが、思った以上に難しい。
この本にも、
実際、急ぎ足で読み飛ばすよりも、何気ないところにも注意しながら立ち止まることの方が、「読む脚力」は要求される。(ページ31より引用)
と書かれてあるとおり、ゆっくり読むことは、速く読むことよりもスタミナが必要であると感じます。いや、スタミナというよりは忍耐でしょうか?ここはやはり、この本に書かれてある「読む脚力」という言葉がしっくりきますね。
スマホで毎日たくさんの記事を読むようになってから、じっくり文章を読む機会が減ったような気がします。
無意識に飛ばし読みしてしまっていませんか?結論をできる限り速く知りたいとおもったり、その文章のエッセンスだけ知りたいとおもったり。
ババーン!と刺激的で、インスタントな情報を求めてSNSをふらついたり。
時間に追われる日々だから、読み飛ばしてしまっているとも考えられるけれど、それだけではない気がします。考えなくても読める記事が多いのも確か。
本を読むときもまた然り。精読できているようで、意外とその文章の論理が追えていないことが、多々あります。
もともとあるのかどうかも定かではないですが、「読む脚力」が衰えてきていることは確かなようです。読書における廃用が進んでいる。
「読む脚力」は、自分の頭で考えることと関わっていますよね。考える前に、すぐに超えを求めようとして、検索してしまっているのだと思います。それでたどりつける問題や悩みならなおさら。検索して答えがみつからなかったら、諦めてしまったり。つまりは、問題解決志向で生活しているのだと思います。また、結果を重視して、プロセスは蔑ろにしているのだと思います。
ゆっくり、じっくり、文章と向き合って、自分の頭で考えて、読みすすめる。文と文の関係を理解する。議論の全体構造を把握する。そういった泥臭さが、「読む脚力」ないしは自考するスタミナを増やしてくれるんですよね。