岡山の家庭医の読書・勉強ブログ

岡山の家庭医のブログです。総合診療や家庭医療、哲学、ビジネス、いろいろ。

ちゃんと知る、生物心理社会モデル(BPSモデル:Bio-Psycho-Social model)

生物心理社会モデル(Bio-Psycho-Social model:BPSモデル)について、「バイオサイコソーシャルアプローチ―生物・心理・社会的医療とは何か? 」という書籍を通じて改めて勉強したので、ここにまとめておきます。

 

 

 

 

 

BPSモデルは生物学的側面、心理的側面、社会的側面それぞれについてリストアップするような還元主義的なモデルではない。そしてBPSアプローチは、各側面に対して万遍なくアプローチしていくものでもない。

 


BPSモデルはシステム理論に基づいて、生物学的側面、心理的側面、社会的側面が相互に関連しあい、全体として、統合的に、今の状態が現れていると考えるモデルである。

 


・臨床実践における認識という点において、それは最も有効な介入ポイント(レバレッジポイント)を引き出すことに役立つ。

 

 

・なお、よく目にする3つの円を用いた概念図は便宜的なものであることに注意。原著の図は階層モデルで表現されている

図 生物心理社会モデルのシステム階層 1)

(上記画像は 

https://www.yodosha.co.jp/webg/contents/gtips/vol6.htmlより転載)

 

 

BPSモデルは、「患者の心理社会的側面をみよう」という視点の提供だけにとどまるものではないし、ましてや全人的医療という言葉に収斂されて表現されてしまうようなものでもない。言い換えるなら、BPSモデルは、然るべきタイミングで、患者に必要なレベルでの介入がなされなければならないとする多元主義に見合うモデルである。

 

 

・そしてBPSアプローチは、それぞれの相互性を考えながら統合的に理解して介入するということである。

 

 

BPSモデルを臨床に実装する理論的枠組としてのBPSアプローチは、2003年にロチャスター大学から提唱されている(原著:Frankel RM, Quill T. The Biopsychosocial Approach: Past, Present, Future. Rochester, NY: University of Rochester Press; 2003. )。概要については、日本医療福祉生協連合会 家庭医療学開発センターの記事で解説されている。

Biopsychosocial アプローチ | 家庭医療学開発センター CFMD|日本医療福祉生活協同組合連合会家庭医療学開発センター CFMD|日本医療福祉生活協同組合連合会

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

BPSモデルは、生物・心理・社会的側面に関する情報をリストアップするだけのものではないこと。各側面の相互作用と関係性に着目して、全体として統合して把握するもの。

 

しかし、BPSモデル事態も万能で完全なモデルでないことに注意が必要です。生物・心・社会的側面だけでは捉えきれていない側面があり、こうした枠組みとして捉える以上、こぼれ落ちてしまっている要素が必ず存在することを留意しておくべきでしょう(例えば過去から現在、未来に至る時間軸や、スピリチュアルな側面など)。

 

複雑なものを複雑なものとしてそのまま捉えることの難しさを実感するとともに、その重要性にも気が付かせてくれるモデルだなぁと感じます。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


※参考文献

・バイオサイコソーシャルアプローチ―生物・心理・社会的医療とは何か? 

・Engel G. The clinical application of the biopsychosocial model. Am J Psychiatry. 1980;137:535-544.

動脈硬化性疾患予防ガイドライン、2022年版に改訂されてました。


脂質異常症について、2017年版のガイドラインを参考にしながら記事を執筆していたのですが、なんと今年7月に2022年版が公開されていたのを発見し、「マジスカ学園!」ってなりました。

 

今から記事を書き直します・・・(泣)。

 

動脈硬化性疾患予防ガイドライン2022年版 はこちら。PDFでどなたでも読めます。

www.j-athero.org

 

2022年度版の主な改訂点がガイドラインの序章にまとめられているのですが、脂質管理目標値設定のための動脈硬化性疾患の絶対リスク評価手法が、吹田スコアから久山町研究のスコアに変わっていました


「久山町研究のスコアは、虚血性心疾患と、脳梗塞の中でとくにLDL-Cとの関連が強いアテローム血栓脳梗塞の発症にフォーカスされていた点が大きい」からとのこと。

 

また、二次予防の対象として、冠動脈疾患に加えてアテローム血栓症脳梗塞も追加されています。

 

わたしもまだ読みこめていませんが、動脈硬化性性疾患の予防という観点での正確なリスク評価と治療内容と適用の見極め、そして患者との共同意思決定の重要性は変わらないものかと思いますので、プラクティスを変えるべき点と変えなくてもよい点を吟味していきたいと思います。

 

※ちなみに、動脈硬化性疾患発症予測ツールも2022年版にアップデートされていました。

www.j-athero.org

 

 

【読書記録】自分の興味を限定して自惚れていないか。(荒木飛呂彦「荒木飛呂彦の漫画術」)

読書記録。

今回は、「ジョジョの奇妙な冒険」の著者である荒木飛呂彦先生ご自身が書かれた、「荒木飛呂彦の漫画術」です。

 

ぼく自身が漫画を描いているわけでもなく、描こうと思っているわけでもなく、荒木先生がどんな思考や技術を駆使して漫画を描いているのか、単純に興味があったのです。

 

読んだことのある方はわかると思いますが、「ジョジョ」を読んでいると、「なにそのセリフ!」とか、「なにこのポーズ!?」とか、その世界観とか、どこからこんなアイデアが生まれるんだろうとか、どんどん引き込まれていくんですよね。

 

具体的な漫画の描き方、特に設定をどこまで突き詰めていけるのか、そのリサーチや下調べ、テーマや世界観の作りこみ、そしてそれらの表現方法など、惜しげもなく公開されています。

 

 

そして本の終盤、荒木先生がアイデアが生まれることに関して述べた一節が、個人的には特に考えさせられました。

 

まさに「ズキュウウウン」ときました(無理やりジョジョ要素を入れてみる)

 

 

アイディアが尽きるというより、自分の興味が尽きるからアイディアがなくなるのだと思います。よいアイディアは、自分の人生や生活に密着しているのですから、興味がなくなってしまえば生まれなくなるのです。

逆に、常に何かに興味を持つことができて、周囲の出来事に素直に反応できるアンテナを持ち続けられるのであれば、「アイディアが尽きる」ということはないはずです。

(中略)

「自分が興味があるのはこれだ」と限定して、そこから外れたものを無視するという"自惚れ”は絶対にNGです。

※本文229ページより引用

 

さすが荒木先生!(中略) そこにシビれる!あこがれるゥ!(またしても無理やりジョジョ要素をいれこむ)

 

これは非常に示唆深いと感じました。漫画術の本ではあるのですが、荒木先生の生き方をそのものが書かれた一節なのではないでしょうか。

 

「アイデアがないんだ」という表明は、自分自身の興味の対象の狭さ、ひいては生きている世界の狭さを表明していることと同じであると言えるでしょう。

 

一方でこれは、なにかに没頭すること、それそのものの否定ではないと思うのです。ひとつのことに没頭して取り組んでいる時、そのものに何かしらの関係があるのではないかと、その他の事物・事象を関連付けられるような思考や視点をもつ人も、多くいらっしゃると思います。

 

そしてこの一節を読んでいて、「自分は〇〇なので、✕✕には興味がない」といった表現でによって、自分の興味の対象の狭さを、どこか自分のアイデンティティのように表現してしまっていないだろうかと、ふと思いました。

 

「〇〇だから、✕✕はやらないんだよね」とか、「■■だから、△△は知らないんだよね」と、開き直った態度をとることで、自分がどういう存在なのか表現する手法が見受けられることもあります。

 

これって一見、思い切った態度に見えなくもないですが、どこかつまらなさも感じてしまいます。自ら、世界を狭めていってしまう姿勢では、どこかで創造性を欠いてしまって、どこかでつまらない人生になっていってしまいそうです。

 

省みて私自身はどうかというと、どこかそんな姿勢で生活してしまっているような気がするのです。総合診療医のひとりとしてみてみたら、医療全般における興味の対象は広いですが、では「ひとりの人間」として生きるなかで、興味の対象はどうだろうかと。触れたことのないものに対して、勝手に苦手意識をもっていたり、知らないフリをしているだけなのではないだろうかと。

 

勝手に自分をラベリングして、生きる世界を限定的にすることで、自分が何者であるかを安易に定義づけて、自惚れてしまっていないか

 

そんなことを考えさせられた、一節でした。

 

(全然、漫画術と関係ないことを書いてしまった・・・)

 

 

【読書記録】知識は「ある」のであって「持つ」ことはできない(岸見一郎「ゆっくり学ぶ」)

読書記録です。

今回は、「嫌われる勇気」といったアドラー心理学の書籍を世に多く送り出している、岸見一郎先生の「ゆっくり学ぶ 人生が変わる知の作り方」です。

 

何かの目的のために学ぶのではなく、「学ぶこと」そのものを目的に学ぶことを後押ししてくれる本です。

 

特に「ゆっくり学ぶ」というキーワードで多く語られております。効率化を求めた学びそのものを批判するわけではなく、学ぶことそのものを楽しんでもいいのではないか。ゆっくり時間をかけることで思考が深まり、知識を知恵に変換していくプロセスを楽しみ、結晶化していくことの重要性が強調されています。

 

 

その中で、個人的に気になった一節がこちら。

 

 

本書で問題にしている知識は「ある」のであって、それを「持つ」ことはできません。

知識を持てると考えている人は、講義を聴いている時にノートに教師の話すことをすべて書き取ろうとします。しかし、知識は持てないので、もしも教師の言葉を書き留めたノートをなくしてしまうと、講義の内容を何も思い出せなくなります。

 

(中略)

 

知識はもののように持てないので、それを「持つ」ために書いておいても思い出せないことがあります。反対に、書かなくても思い出せることがあります。

※本文p155〜157より引用

 

知識は「ある」のであって、「持つ」ことはできない。

 

わたしも例にもれず、メモを意識的にとる機会が多いのですが、誰かが話している内容を一生懸命聴いて、一言一句逃さずメモを取ろうとすると、逆説的に「聴けていない」ことがあるんですよね。

 

なんというか、その情報を知識として自分のものにするためのメモのはずが、保存すること、所持することが目的になってしまって、結局頭には何も残っていないという状況に陥ってしまっているという。

 

この本に明記されているわけではないのですが、私の解釈としては、

 

一見、記録を取ることで知識を「持つ」(所持)ことができるのではないかと考えられそうですが、そもそも知識は自らが理解し、自分のものにできている(所有)ときに、はじめて知識といえる。そういう意味で、岸見先生は、「知識は『持つ』ことができない」とおっしゃっているのでしょう。

 

かといって、記録をとることを岸見先生は否定しているわけではなく、記録をとるだけで満足していないか、「持つ」(所持)ことで自分のものになった(所有)と勘違いしていないか、そう問いかけているのだと思います。

 

情報を情報のままにするのではなく、知識として自分のなかに「ある」状態(所有)にする。こうして読書記録をつけていくことも、その方法のひとつなのだと思います。

 

情報をたくさん持つことで物知りになった気になるのではなく、時には時間をかけながらゆっくり学ぶことで、自分のなかに「ある」知識が増えていけるように、そしてそれを知恵に昇華していけるようにしたいですね。