【読書記録】知識は「ある」のであって「持つ」ことはできない(岸見一郎「ゆっくり学ぶ」)
読書記録です。
今回は、「嫌われる勇気」といったアドラー心理学の書籍を世に多く送り出している、岸見一郎先生の「ゆっくり学ぶ 人生が変わる知の作り方」です。
何かの目的のために学ぶのではなく、「学ぶこと」そのものを目的に学ぶことを後押ししてくれる本です。
特に「ゆっくり学ぶ」というキーワードで多く語られております。効率化を求めた学びそのものを批判するわけではなく、学ぶことそのものを楽しんでもいいのではないか。ゆっくり時間をかけることで思考が深まり、知識を知恵に変換していくプロセスを楽しみ、結晶化していくことの重要性が強調されています。
その中で、個人的に気になった一節がこちら。
本書で問題にしている知識は「ある」のであって、それを「持つ」ことはできません。
知識を持てると考えている人は、講義を聴いている時にノートに教師の話すことをすべて書き取ろうとします。しかし、知識は持てないので、もしも教師の言葉を書き留めたノートをなくしてしまうと、講義の内容を何も思い出せなくなります。
(中略)
知識はもののように持てないので、それを「持つ」ために書いておいても思い出せないことがあります。反対に、書かなくても思い出せることがあります。
※本文p155〜157より引用
知識は「ある」のであって、「持つ」ことはできない。
わたしも例にもれず、メモを意識的にとる機会が多いのですが、誰かが話している内容を一生懸命聴いて、一言一句逃さずメモを取ろうとすると、逆説的に「聴けていない」ことがあるんですよね。
なんというか、その情報を知識として自分のものにするためのメモのはずが、保存すること、所持することが目的になってしまって、結局頭には何も残っていないという状況に陥ってしまっているという。
この本に明記されているわけではないのですが、私の解釈としては、
一見、記録を取ることで知識を「持つ」(所持)ことができるのではないかと考えられそうですが、そもそも知識は自らが理解し、自分のものにできている(所有)ときに、はじめて知識といえる。そういう意味で、岸見先生は、「知識は『持つ』ことができない」とおっしゃっているのでしょう。
かといって、記録をとることを岸見先生は否定しているわけではなく、記録をとるだけで満足していないか、「持つ」(所持)ことで自分のものになった(所有)と勘違いしていないか、そう問いかけているのだと思います。
情報を情報のままにするのではなく、知識として自分のなかに「ある」状態(所有)にする。こうして読書記録をつけていくことも、その方法のひとつなのだと思います。
情報をたくさん持つことで物知りになった気になるのではなく、時には時間をかけながらゆっくり学ぶことで、自分のなかに「ある」知識が増えていけるように、そしてそれを知恵に昇華していけるようにしたいですね。