【読書記録】自分の興味を限定して自惚れていないか。(荒木飛呂彦「荒木飛呂彦の漫画術」)
読書記録。
今回は、「ジョジョの奇妙な冒険」の著者である荒木飛呂彦先生ご自身が書かれた、「荒木飛呂彦の漫画術」です。
ぼく自身が漫画を描いているわけでもなく、描こうと思っているわけでもなく、荒木先生がどんな思考や技術を駆使して漫画を描いているのか、単純に興味があったのです。
読んだことのある方はわかると思いますが、「ジョジョ」を読んでいると、「なにそのセリフ!」とか、「なにこのポーズ!?」とか、その世界観とか、どこからこんなアイデアが生まれるんだろうとか、どんどん引き込まれていくんですよね。
具体的な漫画の描き方、特に設定をどこまで突き詰めていけるのか、そのリサーチや下調べ、テーマや世界観の作りこみ、そしてそれらの表現方法など、惜しげもなく公開されています。
そして本の終盤、荒木先生がアイデアが生まれることに関して述べた一節が、個人的には特に考えさせられました。
まさに「ズキュウウウン」ときました(無理やりジョジョ要素を入れてみる)
アイディアが尽きるというより、自分の興味が尽きるからアイディアがなくなるのだと思います。よいアイディアは、自分の人生や生活に密着しているのですから、興味がなくなってしまえば生まれなくなるのです。
逆に、常に何かに興味を持つことができて、周囲の出来事に素直に反応できるアンテナを持ち続けられるのであれば、「アイディアが尽きる」ということはないはずです。
(中略)
「自分が興味があるのはこれだ」と限定して、そこから外れたものを無視するという"自惚れ”は絶対にNGです。
※本文229ページより引用
さすが荒木先生!(中略) そこにシビれる!あこがれるゥ!(またしても無理やりジョジョ要素をいれこむ)
これは非常に示唆深いと感じました。漫画術の本ではあるのですが、荒木先生の生き方をそのものが書かれた一節なのではないでしょうか。
「アイデアがないんだ」という表明は、自分自身の興味の対象の狭さ、ひいては生きている世界の狭さを表明していることと同じであると言えるでしょう。
一方でこれは、なにかに没頭すること、それそのものの否定ではないと思うのです。ひとつのことに没頭して取り組んでいる時、そのものに何かしらの関係があるのではないかと、その他の事物・事象を関連付けられるような思考や視点をもつ人も、多くいらっしゃると思います。
そしてこの一節を読んでいて、「自分は〇〇なので、✕✕には興味がない」といった表現でによって、自分の興味の対象の狭さを、どこか自分のアイデンティティのように表現してしまっていないだろうかと、ふと思いました。
「〇〇だから、✕✕はやらないんだよね」とか、「■■だから、△△は知らないんだよね」と、開き直った態度をとることで、自分がどういう存在なのか表現する手法が見受けられることもあります。
これって一見、思い切った態度に見えなくもないですが、どこかつまらなさも感じてしまいます。自ら、世界を狭めていってしまう姿勢では、どこかで創造性を欠いてしまって、どこかでつまらない人生になっていってしまいそうです。
省みて私自身はどうかというと、どこかそんな姿勢で生活してしまっているような気がするのです。総合診療医のひとりとしてみてみたら、医療全般における興味の対象は広いですが、では「ひとりの人間」として生きるなかで、興味の対象はどうだろうかと。触れたことのないものに対して、勝手に苦手意識をもっていたり、知らないフリをしているだけなのではないだろうかと。
勝手に自分をラベリングして、生きる世界を限定的にすることで、自分が何者であるかを安易に定義づけて、自惚れてしまっていないか。
そんなことを考えさせられた、一節でした。
(全然、漫画術と関係ないことを書いてしまった・・・)