岡山の家庭医の読書・勉強ブログ

岡山の家庭医のブログです。総合診療や家庭医療、哲学、ビジネス、いろいろ。

記録を取る者は向上する。

近況報告

心を亡くすと書いて「忙(しい)」。

この1ヶ月はそんな期間だった。

 

10月から勤務地もかわり、環境の変化に対応することにエネルギーの大半がもっていかれる。自宅に帰っても、頭を使うような活動はなかなかできず。

こういったまとまった文章も、自分の性格的に「えいやっ!」とはかけず、ある程度のエネルギーと時間がないと書けない。

 

ある意味では、必死に乗り越えていこうとして、経験から学びにつながっているような感じでもある。実際のところ、目の前の事象に対応しようとその場をなんとか乗り越え、その後に振り返って勉強し、次に繋げるみたいな、いわゆる省察的実践を繰り返している。

 

省察的実践については、藤沼先生のブログが勉強になります

fujinumayasuki.hatenablog.com

 

僕は今、小児科で勤務しているから、当たり前だけれど、小児科の勉強を中心にやっているわけです。基本的な診療は成人と大きく変わることはないけれど、両親との対話も重要であったり、小児といっても新生児から思春期にかけて、成長の幅も広い。

小児の総合診療を実践しているのが小児科医。尊敬します。

 

 

 

メモとおすすめノート

こうして、日々いろいろな経験をしていって、その都度学んだことをたくさんメモしている。そういえば、社会人になってからぼくはメモ魔になったと思う。

理由ははっきりとしないけれども、ひとつにはEvernoteをまとめノートとして使用するようになったことがあると思う。その結果、見知ったことをできる限り記録したいという気持ちが常にあって、経験をできるだけ文字か何かに落とし込んでいくようになった。

一方Evernoteはデジタル記録。その反動もあってか、手書きメモを無性に書きたくなることもある。実際、ノートはは常に持ち歩いている。

 

お気に入りのノートは、「コクヨ ノート ソフトリング ビジネス 方眼罫 70枚 B6 黒」。

まずは大きさ。B6サイズは、ちょうどスクラブのポケットにはいる大きさ。小さすぎず大きすぎず。

そして紙質。薄くてつるつるした安っぽい紙は嫌いで、インクのノリも悪い。このノートはある程度の厚さの紙で、インクのノリもいい。「文字を書いている!」って感じがする。

あとは、リングノートであることは必須。リングノートでなければ、立った状態でメモを取るのが困難だから。このノートは、表紙もしっかりしているし、紙も丈夫だから、立った状態で片手にメモが取りやすい。

リングがふにふにした柔らかいものであることも良い。

 

といった具合で、このノートが個人的に最強です。

 

 

記録を取る者は向上する

効率のいいメモのとりかたとか、まとめ方とか、たくさんあるのだと思う。

そういった解説本はたくさんあるし。

 

去年出た読書猿さんの「独学大全」には、

自らが歩んだ足跡は、歩き続けるものを励まし支えるだろう。

(中略)

記録を取るものは向上する。

(p165より)

 

と書かれてあった。

 

この本でラーニングログが勧められてあって、読書した本や論文の記録など、様々な学びの記録をとっておくことが書かれてあった。日記ではなく「航海日誌」。

自分の歩みの足跡としての記録。なにがどう役立つかとかはその時々ではわからない。ただ、ぼくは記録を取る。

 

メモを取ること自体が楽しいのだと思う。それにはやっぱり、メモを取っていて楽しいと思えるようなデバイスでないといけない。ぼくにとっては、それがEvernoteであり、コクヨのB6リングノートである。

 

持ち運べる & いつでも書き込める。ルールはそれくらいで、あとはどんなことを、どんなふうに書き込んでもいい。とりあえず、記録をとっておく。

もしかしたら役立つかもしれないし、役に立たないかもしれない。それくらいの気持ちで、とにかく記録しておいて、書いて、考える。

 

 

f:id:yktyy:20211009111557j:plain



知れば知るほど、世界は白黒つけられないことばかりなんだと実感する。

ここ最近、「患者中心の医療の方法」第3版の翻訳書を用いた読書会に参加しています。

 

そのうちの第8章は、医学生や研修医に対してどのようにして患者中心の医療の方法の教育に関して記載されており、このような記述がありました。

 

204ページ

「二元論から相対主義による献身へと進歩する」


「「誠意がありかつ暫定的である」能力を形成する必要がある」
  

この2つからビビッと感じた部分があり、思ったことをつらつらと書きなぐってみます。

 


今まで慣れ親しんできた、白黒はっきりするような二元論から、相対主義的な考えにシフトするのは苦しみを伴います。なんせ、受験勉強まで白黒はっきりできる問題ばかりに対処してきた医学生は、実臨床で白黒はっきりしないグレーゾーンばかりの現実に直面するからです。

 

 

実生活や実臨床では、未分化で不確実なものに直面しても、白か黒かに偏るわけでなく、暫定的な状態を良しとする、ネガティブ・ケイパビリティのような能力が求められます。

 

 

まぁ確かに、二元論で物事を考えるほうが、生きていく上では楽だったりします。そもそも、二元論でしか物事を考えられない時、それは自分の世界に閉じこもっているのではないかと思うのです。(ここでいう「世界」とは、単に地理的なものだけではなく、広い意味としての「世界」です)

 

 

世界を知れば知るほど、白黒つけられないことばかりなのだと実感します。「そんな考え方があるのか」とか、「そんな文化があるなんて」とか、「そんな人達がいるなんて」とか。自分の想像もしない世界が広がっています。

 

 

そもそも、医学界は広い学問の世界のなかでも一分野にすぎません。如何に自分みている世界が狭いものなのか。

 

 

そういう意味で、世界を広げていくような勉強は、ある種の痛みを伴うものなのかもしれません。世界の広さを知らなかった自分には、もう戻ることはできません。しかし、そうやって視野の広がった自分は、他者を受け入れることのできる自分に一歩近づいているのだと思います。そして何より、楽しむことができます。「楽である」ことと「楽しい」は、同じ漢字ではあるものの、同意ではありません。

 

 

世界の広さや多様性を知ることは、苦しみを伴うかもしれないけれども、楽しいものである。

 

 

ぼくが学びたいと思う理由は、様々な考え方や文化に触れることで、世界の広さを知ることができ、自分のちっぽけさを感じて苦しむことがあるけれども、その先に広がる視界に心躍るからなのだと思います。

 

 

追伸:2020年にやっていた「シロでもクロでもない世界で、パンダは笑う。」っていうドラマがお気に入りです。

シロでもクロでもない世界で、パンダは笑う。🐼【公式】 (@shirokuro_drama) | Twitter

f:id:yktyy:20210909215904j:plain

 

岡山の家庭医が2021年8月に購入して読んだ本の一覧

2021年8月に購入して読んだ書籍の一覧です。

引っ越し前ということもあり、書籍の整理も兼ねて、購入数は抑えめです。

今月の一番の収穫は、「コンヴィヴィアリティ」という概念に出会えたことですね。

 

ご参考になれば幸いです。

 

【一般書】

河合隼雄スペシャル 2018年7月 (100分 de 名著)

河合隼雄さんの本を読み始めようかと思って調べてみると、たくさんのおすすめしょせきがでてきて圧倒されたので、「100分 de 名著」から導入していくことに。

 

 

 ●スター・ウォーズ ジェダイの哲学 :フォースの導きで運命を全うせよ

医学教育学会でとりあげられていたので、気になって購入。だいたい「哲学」という言葉がタイトルに入っているだけで、反応して購入してしまいます。

 

●コンヴィヴィアリティのための道具

コンヴィヴィアリティ(conviviality)」は日本語訳で自立共生と訳されており、程よい距離感をもって道具と共に生きるということ。ここでいう道具とは、一般的な道具の定義よりもひろく、自動車などの大きな機械や、それを作り出す工場、そのほかにも医療や教育や政治といった社会のシステムも道具として含まれる。

誤解を恐れずにいえば、道具は使っても使われるな、ということなのかなと解釈しました。現代のわかりやすい例は、スマートフォンSNSだと思います。

コンヴィヴィアリティという概念は、脱成長が謳われはじめた現代にマッチすると感じます。

 

 

 ●新版 論理トレーニング 

 

細田守スタジオ地図の10年

「竜とそばかすの姫」が最高でしたので、細田守さんのこれまでの制作ヒストリーを追いたくなり、購入。アーティストの制作過程や思考過程にふれると、いつもと違う頭を使うので、それだけで楽しいですね。

 

イノベーション・オブ・ライフ ハーバード・ビジネススクールを巣立つ君たちへ 

イノベーションのジレンマ」の著者が語る、ビジネスでの考え方を人生に転用し当てはめてみることで、如何にして人生を善く生きていくかについて語られた本。

時間は資源であり、その時々に、そのときにしかできないことに時間を投資すること。過去や未来にばかり視点をむけず、今を生きること。

 

 

教養としてのギリシャ・ローマ―名門コロンビア大学で学んだリベラルアーツの真髄

 

BRUTUS(ブルータス) 2021年 7月1日号 No.941  「大人の勉強案内」

幅広い分野に渡るトップランナーが、それぞれの視点から「勉強」について語られている特集。永久保存版です。

 

ケアの倫理とエンパワメント

 

 

医学書

総合診療 2021年8月号 メンタルヘルス時代の総合診療外来―精神科医にぶっちゃけ相談してみました。

かなり内容の濃い特集でした。ちょっとまだ咀嚼できていません。

 

藤沼泰樹先生の連載「55歳からの家庭医療」がとても参考になりましたので、内容を一部引用します。

医師像の変容と総合診療(p1058-1061)より

・総合診療の英語表記は「Generalist Medicine」でないか。

 

・未分化な健康問題(「一人暮らしが心もとない」など)へのアプローチを意識的に取り組むことになるのが、総合診療専門研修である。未分化な健康問題は、真正の「Generalist Medicine」の対象である。

 

ポートフォリオは、unlearning(アンラーニング)のプロセスを、作品(artifact)として作り上げるものである。これまで習ったことがなかった枠組みと文体で記述し、自分自身の内的変化や感情を振り返りつつ、総合診療における卓越性を表現させようとするもの。


ポートフォリオに関して、他領域の専門科医師らのもつ違和感
  「感想にすぎない」→ 医師自身の感情も含めた省察のこと
  「客観的・科学的でない」→ 病いや障害の主観的側面、meaning of illnessのこと
  「結論がわからない」→ 医学・医療のアウトカム設定のパラダイムの違いを暗に示している


★総合診療自体が、従来の医師のあり方をunlearningしないとみえてこないものである

 

わたしの考えとして、ポートフォリオ作成の意義は、自身の経験や思考を外在化することにより、自分自身や他者が、その経験や思考を客観的に受け取り、様々な視点で意見を交わすことにより、省察を促すことにあるのではないかと考えます。

 

 

初期研修医・総合診療医のための 小児科ファーストタッチ

 

レジデントのための血液透析患者マネジメント 第2版

 

f:id:yktyy:20210905102450j:plain



コロナ禍における専門医研修への向き合い方について

先日、とあるミーティングでの話題をうけて。

コロナ禍で、自分がどんな心持ちで総合診療専門医研修をおくっているのか、改めて考えさせられました。

 

 

 

2種類の総合診療専攻医がいる

とある急性期病院で働く総合診療専攻医の方々が、日々新型コロナウイルス感染症の対応に追われ、いわゆる「総合診療」らしい研修がおくれていないとのこと。

総合診療専門研修で〇〇をしたくて専攻したのに!」と期待通りの研修ができず、バーンアウトしてしまいそうな専攻医もいるという。

たしかに自分ももし現状のコロナ禍で、やりたいこともできず、最前線の病院で常にストレス環境下にさらされていたら、バーンアウトしてしまうかもしれない・・・。

 

その話のあと、とある先生が仰っていたことに、わたしは妙に納得した。(正確な表現は忘れてしまったけれど、確かこんな話だったはず・・・)

 

「総合診療専攻医には2種類いて、総合診療や家庭医療の醍醐味とされる分野や領域を研修することを目的としている専攻医と、いわゆる総合診療をやりたいとおもって入った専攻医がいる。後者は、枠にとらわれずに様々な実践をおこないたいと思っている。」

 

これをきいて、自分はどちらかというと、後者のタイプだなと思った。いろいろな現場で、その時々で求められることをして、患者や住民にとって少しでもためになれるような実践をする。それで良いなと思っているし、それが良いなとも思っている。

 

 

改めて考えてみると、総合診療医という形でその場所に入って、自分が必要だと感じることや、求められることをやっていくことで、患者も含め、誰かの役に立っているのであれば、ある程度どんな活動でも楽しめるのかもしれない。

 

 

もちろん、自分の中にも総合診療専門研修で経験したいことや、到達しておきたい目標地点はある。だけれど、少し広い視野や長い時間軸で考えるなら、今実践していることの延長線上に、その目標地点が必ずあるのではないかと思う。どんな実践や経験も、自分が掲げた目標に向かって進む一歩になっていると感じられるし、そうなるように少しでも学び取ろうと努力しているつもりだ。

 

 

 

コロナ禍でも同じことが言えるの?

確かに、今自分が置かれている環境は都心と比べて、まだ比較的余裕があるからそんなことが言えるのかもかもしれない。もし感染爆発で医療崩壊している地域での新型コロナウイルス感染症の対応を同じように任されたら、そんなことをいっている余裕はないかも・・・。


だけれど、振り返ってみると、自分も昨年に急性期病院で診療の前線に立っていたとき、苦労や疲労に押しつぶされながらも、何らかのやりがいも感じていたような気がする。実際、現在のコロナ禍でも、新型コロナウイルス感染症診療にもやりがいを感じている(大変だけれど)。

 

 

たとえば、「発熱外来」と名のつく外来は、どこか「コロナか、コロナじゃないか」みたいな外来になりがちである(いやもちろん、ちゃんと鑑別しないとダメなことは承知しています)。

下手すると機械的な診療になってしまうかもしれないし、トリアージだけ行うのであれば、機械にとってかわられてもおかしくないかもしれない。

だけれど、機械的になってしまいそうな診療も、どこか楽しんでいる自分がいる。「楽しむ」と書くと不謹慎かもしれないが、やりがいをある程度感じている。

 

 

それは、今自分に課せられている役割や使命を全うすることで、少しは医師として人の役に立てているんだと感じられるからかもしれない。あとは、機械的に見えるような業務でも如何に効率的に行ってみようかとか、違う視点でみてみたら変わった学びが得られるんじゃないかとか、そんなことを考えたりしている。

 

 

 

 

総合診療医や家庭医ではなく、ひとりの「医師」として

総合診療医とか家庭医といった肩書をもって診療に臨んでいるけれど、正直なところどっちでも良かったりする。

 

総合診療専門研修を専攻しているのは、総合診療医になりたいからじゃない

総合診療医になりたいとか、家庭医になりたいとかではなく、総合的に診療をおこなっている結果、総合診療医といったラベリングがなされるくらいのイメージ。あくまで結果。

 

患者や住民のために、ひとりの「医師」として実践するだけ

 

そんな感じで、本当は名前はどうでもいい。

 

そのときや場所によって求められたり、必要とされたことを実践して、ひとのためになっているのであれば、それはそれでハッピーだし、それはそれで総合診療の研修とも言えるのではないかなと、感じる今日この頃。

 

「なに綺麗事をいっているんだ」と思うかもしれないけれど、実際そんな気がする。

そのために総合診療専門研修をやっています。

 

f:id:yktyy:20210826221123j:plain