先日、とあるミーティングでの話題をうけて。
コロナ禍で、自分がどんな心持ちで総合診療専門医研修をおくっているのか、改めて考えさせられました。
2種類の総合診療専攻医がいる
とある急性期病院で働く総合診療専攻医の方々が、日々新型コロナウイルス感染症の対応に追われ、いわゆる「総合診療」らしい研修がおくれていないとのこと。
「総合診療専門研修で〇〇をしたくて専攻したのに!」と期待通りの研修ができず、バーンアウトしてしまいそうな専攻医もいるという。
たしかに自分ももし現状のコロナ禍で、やりたいこともできず、最前線の病院で常にストレス環境下にさらされていたら、バーンアウトしてしまうかもしれない・・・。
その話のあと、とある先生が仰っていたことに、わたしは妙に納得した。(正確な表現は忘れてしまったけれど、確かこんな話だったはず・・・)
「総合診療専攻医には2種類いて、総合診療や家庭医療の醍醐味とされる分野や領域を研修することを目的としている専攻医と、いわゆる総合診療をやりたいとおもって入った専攻医がいる。後者は、枠にとらわれずに様々な実践をおこないたいと思っている。」
これをきいて、自分はどちらかというと、後者のタイプだなと思った。いろいろな現場で、その時々で求められることをして、患者や住民にとって少しでもためになれるような実践をする。それで良いなと思っているし、それが良いなとも思っている。
改めて考えてみると、総合診療医という形でその場所に入って、自分が必要だと感じることや、求められることをやっていくことで、患者も含め、誰かの役に立っているのであれば、ある程度どんな活動でも楽しめるのかもしれない。
もちろん、自分の中にも総合診療専門研修で経験したいことや、到達しておきたい目標地点はある。だけれど、少し広い視野や長い時間軸で考えるなら、今実践していることの延長線上に、その目標地点が必ずあるのではないかと思う。どんな実践や経験も、自分が掲げた目標に向かって進む一歩になっていると感じられるし、そうなるように少しでも学び取ろうと努力しているつもりだ。
コロナ禍でも同じことが言えるの?
確かに、今自分が置かれている環境は都心と比べて、まだ比較的余裕があるからそんなことが言えるのかもかもしれない。もし感染爆発で医療崩壊している地域での新型コロナウイルス感染症の対応を同じように任されたら、そんなことをいっている余裕はないかも・・・。
だけれど、振り返ってみると、自分も昨年に急性期病院で診療の前線に立っていたとき、苦労や疲労に押しつぶされながらも、何らかのやりがいも感じていたような気がする。実際、現在のコロナ禍でも、新型コロナウイルス感染症診療にもやりがいを感じている(大変だけれど)。
たとえば、「発熱外来」と名のつく外来は、どこか「コロナか、コロナじゃないか」みたいな外来になりがちである(いやもちろん、ちゃんと鑑別しないとダメなことは承知しています)。
下手すると機械的な診療になってしまうかもしれないし、トリアージだけ行うのであれば、機械にとってかわられてもおかしくないかもしれない。
だけれど、機械的になってしまいそうな診療も、どこか楽しんでいる自分がいる。「楽しむ」と書くと不謹慎かもしれないが、やりがいをある程度感じている。
それは、今自分に課せられている役割や使命を全うすることで、少しは医師として人の役に立てているんだと感じられるからかもしれない。あとは、機械的に見えるような業務でも如何に効率的に行ってみようかとか、違う視点でみてみたら変わった学びが得られるんじゃないかとか、そんなことを考えたりしている。
総合診療医や家庭医ではなく、ひとりの「医師」として
総合診療医とか家庭医といった肩書をもって診療に臨んでいるけれど、正直なところどっちでも良かったりする。
総合診療専門研修を専攻しているのは、総合診療医になりたいからじゃない。
総合診療医になりたいとか、家庭医になりたいとかではなく、総合的に診療をおこなっている結果、総合診療医といったラベリングがなされるくらいのイメージ。あくまで結果。
患者や住民のために、ひとりの「医師」として実践するだけ。
そんな感じで、本当は名前はどうでもいい。
そのときや場所によって求められたり、必要とされたことを実践して、ひとのためになっているのであれば、それはそれでハッピーだし、それはそれで総合診療の研修とも言えるのではないかなと、感じる今日この頃。
「なに綺麗事をいっているんだ」と思うかもしれないけれど、実際そんな気がする。
そのために総合診療専門研修をやっています。