岡山の家庭医の読書・勉強ブログ

岡山の家庭医のブログです。総合診療や家庭医療、哲学、ビジネス、いろいろ。

誤配のこととか、連載することになったこととか。

ここ数日、書くことに関する書籍をいくつか読んでました。

ライティングの哲学」では、書くことの苦しさとともに、気軽に書くことの重要性も語られておりました。あと昨日読み終わった「すべてはノートからはじまる」は、書くこと、特に記録をとることの効用を再認識させてくれる一冊でしたね。

 

 

誤配

「ライティングの哲学」と「すべてはノートからはじまる」に共通したポイントとして、なにかを目的とした規範的な記録というよりは、無目的に記録をとっていくことで生まれる、予想外の化学反応や、予期しなかった出会いや発見について、どちらも言及されていたことでした。

 

 

特に「すべてはノートからはじまる」で、東浩紀さんの誤配の概念がとりあげられてます。誤配という言葉そのものは、事故的に間違った宛先に届くといったような、ネガティブなイメージがありますが、東さんはそれをポジティブなイメージで捉えている。

 

東さんはむしろ、自分の発信したメッセージが、予想もしなかった形でだれかに届く、本当はしらなくてもよかったことや、知る由もなかったことを偶然に知る、そういった事故が、イノベーションやクリエイティブのきっかけになると述べています。

(参考:東浩紀「〈誤配〉はイノベーションやクリエーションの源だ」|教養|婦人公論.jp )

 

 

 

 

そういえば連載することになりました

このブログもマイペースに、自分の思うがままに書いているわけですが、いつの間にか、いろいろな方々に読んでもらえていることを、最近知りました。

特定のだれかに向けて発信しているわけではない(強いて言うなら医療関係者?)ので、嬉しい限りです。

 

そんなこんなで、ある種の誤配によってつながった新たな活動として、「地域医療ジャーナル」という月1回発行の医療系ウェブマガジンで、連載させていただけることとなりました。

 

マイペースながらも発信をつづけていたら、こういうこともあるんですね。これからも「まぁなにかの役には立つんじゃない?」くらいの気持ちで、こちらのブログを更新していきたいと思います。

 

よかったら「地域医療ジャーナル」も購読してください。

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自考するために重要な「無能フィルター」(「ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論 」)

最近発売されたこちらの本。

4人の執筆者が、「書くこと」の悩みを解像度高く共有している一冊。シンプルにおもしろい。(表紙の絵が、あらゐけいいちさんであるのもまた良い。)

この本を読むと、書くことについて少し気が楽になった。

 

 

その中で、気になった一節があったので、こちらの一文をもとに、自分の頭で考えることについて考えてみた。

 

資料を先に見ておいて書く時には参照しないやり方を、「自分の頭に置いておける範囲に取り扱う情報を制限する」という意味合いを込めて無能フィルターと呼んでいる。

 

これは「独学大全」が最近ベストセラーとなった読書猿さんの書かれた一節である。

当たり前だが、私たちの頭の中の情報処理・編集能力には限界がある。一度にあつかえる情報量はそれほど多くない。具体的にどれくらい、とは表現しづらいが、それでも変数が10も20にもなってくる複雑系は、難しい。

 

ストーリーになっているものは、そのひとつひとつを紡ぎ出すことで、順序立てて論理を組み立てていくことができるが、そこで使用される引用やこれまでの理論の数は、やはり限りがある。

 

たくさんのインプットをしていくなかで、あれもこれもと、勉強したことすべて活用したくなって一生懸命にすべての記録をとったとしても、実際にアウトプットにすべて活用できないのではないだろうか。こうしてこの文章を書いている今も、この本をよんだインプットのごく僅かな部分からしか引用できていない。

 

読書猿さんは、頭の中の扱える情報数をあえて制限させるような自浄作用を「無能フィルター」と呼んでいる。それほど自分の頭の情報処理能力は高くないんだと、「無能」という言葉で若干揶揄しているが、これは得て妙である。

 

要は、自分が覚えていること、理解できていることを中心に考え、アウトプットするということだ。

 

 

 

わたしも含めて、よくばってたくさんの情報を処理・処理していけるものと勘違いしてしまうことが多い。それぞれの情報をそのまま転用することすらままならない。ひとつひとつの情報について、自分自身が理解できているのかどうかも定かでないこともある。

 

読書などのインプット作業の中で、気になったフレーズや内容はもちろんメモしている。ただそれらすべてを活用できるかというと、そうではない。そして、すべてを活用しようと意気込んではならないとも思う。

 

そこで、何かアウトプットをしていく際、自分のアウトプットの枠組みや論理の骨組みとなるものをいくつかピックアップして、それらを中心に、言葉を吐き出していく。活用する情報は、「無能フィルター」という自浄作用にまかせる。

 

 

 

その求められている文章の内容によっても変わってくるのは間違いない。論文であればこれまでの研究報告に基づいた考察や記載が求められているため、自然と引用文献数は多くなり、しかもその内容には正確性が求められる。そりゃそうだ。学術書も同様である。

 

ただ、引用文献数の多さと、その文章の考察の深さは必ずしも比例しない。情報という道具が多いからといって、素敵な心打たれる芸術作品ができないのと同じだと思う。そこに自分の考えは投影されているのか? 他人のふんどしで相撲していないか?

 

 

 

自分の頭の中のフィルターを通して、残ったものを使って考える。当たり前だけれども、そういった当たり前を言語化しながら、「考える」ということをもっと考えていきたい。こうして書いたこの文章も、果たしてちゃんと自分の頭で考えられただろうか?

 

 

 

 

 

「困難事例」における困難とは果たして、誰にとっての困難なのだろうか?(「『困難事例』を解きほぐす」)

2021年6月27日、「『困難事例』を解きほぐす」の読書会に参加しました。

 

 

著者の御三方が参加され、本の内容をベースにディスカッションするという超贅沢な読書会・・・。


「全方位型アセスメント」フレームワークをどのように臨床現場に落とし込めばよいか、その他にも現場でのリアルな悩みもふくめて、ご意見をいただくことができました。

 

 

 

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まず、「苦しみ」と「苦しい」はイコールではないというのが、新たな学びのひとつでした。
「苦しみ」を「苦しい」と適切に表現できるひとは、それだけでも現状を打破していける可能性が高い。しかし、「苦しみ」を「苦しい」と表現する方法がわからない人や、苦しい状況が「苦しい」ということなのだと自覚できていない、言語化できないひとたちがいる。
その「苦しみ」を「苦しい」と表現することを援助するのが、困難事例の支援の第一歩なのだと気が付かされました。
 
(追記:著者のひとりである竹端寛さんのブログで、こちらの内容について深く解説されております!)

 

 

 

 

そして、「困難事例」における困難とは果たして、誰にとっての困難なのだろうか、という視点。これもまた、ぐさっと突き刺さる学びです。


「困難事例です!」と支援者が言っている時、実はその対象者は困っていないことも往々にしてよくあります。支援者からみた対象者の客観的な問題を、そのまま支援の対象となる問題と考えてしまい、すぐに支援にとりかかろうとすると、本人の意思や考えを無視した、独善的な支援となってしまう。


そうならないよう、この本で提唱されている全方位型アセスメントの4セグメントに分けたフレームワークでの検討が、真価を発揮します。

 

 

 

 

全方位型アセスメントってなんじゃい?」という方は、詳しくは本を実際に手にとって読んでみていただければと思います。家庭医や総合診療医、ケアマネージャーやソーシャルワーカーに限らず、対人支援に関わるすべての人におすすめの書籍です。


※COIは特にありません。ただ純粋におすすめです。

 

医療の文脈でみた実存主義と構造主義(「14歳からの哲学入門」)

14歳からの哲学入門

「史上最強の哲学入門」の飲茶さんの著書。

 

合理主義→実存主義構造主義ポスト構造主義、そしてこれからの哲学について、わかり易くまとまってます。

 

実存主義

生きる意味をサポートする医療者にとっては、実存主義は馴染みやすい。 サルトルによって大成されていった実存主義は、後に構造主義の現れによって衰退していったものの、やはり「実存は本質に先立つ」という考えは、追い込まれてしまった人たちに勇気を与えるものだと思う。

 

構造主義

構造主義もまた、ある意味様々な価値観を肯定してくれる。 唯一普遍の真理はないと考え、それぞれの背景に応じて生まれた価値観を、それとして大切にする視点。 「○○でなければならない」という「べき論」から、すこし自由にしてくれる。

 

やっぱり哲学、面白い。 せっかく勉強しているなら、医療に応用しなきゃ。

 

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