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論考:『コロナ・パンデミックが変容させた「活動的生活」と公的・私的領域』

0.はじめに

  2020年3月11日、世界保健機関(WHO)は新型コロナウイルス感染症パンデミック(以下、コロナ・パンデミック)を宣言した。コロナ・パンデミックは、我々の生活を一変させ、人と人との「つながり方」に関する価値観に多大なる影響を与えた現代の歴史的出来事である。

  本稿では、ハンナ・アレントが『人間の条件』において提示した、他者との関わりの中で成立する「行為」という活動、それが展開される「公的領域」、そして「私的領域」のあり方に、コロナパンデミックはいかなる変容をもたらしたのかについて論じる。

 

1. コロナ禍における「労働」の優位と「行為」の危機

  アレントは、『人間の条件』において「活動的生活(vita activa)」を三つの基本的な活動に分類した(アレント, 2023, pp.24-25)。第一は「労働(labor)」であり、これは人間の生命維持、すなわち生物学的な必要性に直接関わる活動である。第二は「仕事(work)」であり、これは世界の永続性を担保する人工物(道具、建物、芸術作品など)を製作する活動である。第三は「行為(action)」であり、これは他者との複数性(plurality)の中で、言葉と行いを通じて自己を開示し、何か新しいことを開始する活動である。アレントは、この「行為」こそが、人間を最も人間たらしめる活動であり、「公的領域」においてなされるものと考えた(アレント, 2023, p.53, p.82, p.322)。

  2020年に起こったコロナ・パンデミックは、我々が生きる世界そのものへの認識を揺るがした。バトラーが指摘するように、ペストやスペイン風邪といった過去のパンデミックとは異なり、コロナ・パンデミックによって「われわれは、世界を綿密な調査の対象として再認識するようになり、世界は心配の種であると肝に銘じるようになり、いまの世界は予想とは違ったものであることに注目するようになり、世界は突然新たな不透明性を帯び、新たな制限を課すと考えるようになる」(バトラー, 2023, pp.22-23)。コロナパンデミックによって、我々が住む世界の安定性や永続性が、いかに脆弱であるかが露呈されたと言える。

  このコロナの脅威に対応するため、社会は否応なしに生命維持を最優先する体制へと一時的に移行した。パンデミック下では、感染拡大防止という生物学的な必要性が他のあらゆる価値に優先された。その結果、「不要不急」という言葉が日常的に使われ、我々は自らの行動が生命維持にとって必要不可欠なものか否か、つまり我々の行動はアレントのいう「労働」に当てはまるのかどうかを、常に自問自答せざるを得なくなった。

  ここで「不要不急」とされたものの多くは、アレントのいう「行為」の領域に属する活動であった。例えば、友人との会食、文化的な集い、あるいは単に公共の場で他者と偶然に出会うこと。これらは、生命維持という「労働」の観点からは二次的なものと見なされ、厳しく制限された。アレントにとって、人間が単なる「労働する動物(animal laborans)」(アレント, 2023, p.53)に陥らず、意味のある生を送るためには「行為」と「公的領域」が不可欠であったが、パンデミックはまさにその領域を直撃した。

  コロナ禍にジョルジョ・アガンベンが論考のなかで投げかけた「生存だけを価値として認める社会とはいったいどんな社会だろうか」という問いは、この状況を鋭く突いている(大澤・國分, 2020, p.79)。感染症対策の名の下に、政治的・社会的な生(ビオス)が、単なる生物学的な生命(ゾーエー)、アガンベンのいう「剥き出しの生」へと還元されてしまう危険性が顕在化したと言えるだろう(大澤・國分, 2020, p.94)。

 

2. 「公的領域」の解体とオンライン空間への移行

  アレントのいう「公的領域」とは、人々が「行為」する場であり、互いの複数性を認め合いながら語り合う空間、いわば「共通世界」である(アレント, 2023, p.85)。それは、古代ギリシャのポリスに象徴されるように、人々が「私的領域」の必要性から解放され、他者の前で現れる場所であった(アレント, 2023, p.66)。

  しかし、パンデミック対策として導入された「ソーシャルディスタンス」や「ロックダウン」は、この物理的な集まりを根本から不可能にした。人と人が直接対面し、同じ空間を共有することが制限されたことは、アレントがもともと想定していた物理的な「公的領域」の解体を意味していた。そして、この物理的な「公的領域」の代替として急速に台頭したのが、オンラインミーティングツールをはじめとしたオンラインコミュニケーションである。パンデミックを契機にこれらの技術は爆発的に普及し、会議や議論、さらには交流までもがオンライン上で実施されることが常態化した。バトラーが「パンデミックによって新しいグローバルな相互連関と相互依存へと開かれる」(バトラー, 2023,  p.16)と述べた背景には、この技術的進展が大きく寄与している。

  だが、このオンライン化された「公的領域」は、アレントがおそらく想定していたとおもわれる「公的領域」とは決定的に異なる性質を持っている。それは身体性の欠如である。アレントは、「現れの空間は、複数の人間が一緒になって言論や行為を行うところなら、どこにでも出現する」(アレント, 2023, p.354)と述べているが、インターネットが世界中に張りめぐらされ、オンラインコミュニケーションが主流となった現代のような状況を、アレントは当時、どこまで予想できていただろうか。オンラインミーティングでは、映像と音声は伝達されるものの、同じ空間を共有し、互いの身体的な「現れ」を直接感じることはできない。実際に触れること、同じ空気を感じるといった感覚は決定的に欠落している。オンライン上のコミュニケーションは、この「現れ」を不完全なものにする。人と人とが文字通り「触れ合う」機会がなくなっていった先に到来する社会は、人間的な自然に反するディストピアだと言えよう(大澤・國分, 2020, p.25)。

  加えて、オンライン空間での「行為」は、合理性や有用性に支配されやすい傾向がある。なぜなら、オンライン空間はその設計上、なんらかの目的のために最適化された空間だからである。たとえばオンラインミーティングは、なんらかのテーマについて議論することが目的となっており、会話の開始と終了が設定されている。そして直接対面での会話が持つ偶発性や予測不可能性、あるいは結論の出ない「語り合い」そのものの価値は後退し、効率的な情報交換やタスク処理の場となりやすい。その背景には、「すべてを目的に還元する論理」がはたらき、「目的をはみでるものを許さない傾向」があり、そしてその傾向はコロナ・パンデミックを契機に加速した、と國分は指摘する(國分, 2023, pp.145-146)。「どこかに集合して対面で会話を行うことに意義を見いだせなくなってしまっている」という価値観の変化は、裏を返せば、「行為」の価値が合理性や有用性によって測られるようになったことを示している。しかし、合理性や有用性が強調されるときに「行為」は、アレントが述べていた本来の意味での「行為」、つまり他者との複数性の中における自己開示や何か新しいことを開始する活動から遠ざかっていくだろう。

 

3. オンラインミーティングツールの普及により加速した「私的領域」の侵食

  アレントは『人間の条件』のなかで、「公的領域」と対比される「私的領域(private realm)」の重要性も説いていた(アレント, 2023, pp.104-106)。「私的領域」は、生命維持(労働)と休息の場であり、公的な視線から守られるべき場所であった。「公的領域」で「行為」を行うためには、まず「私的領域」で生命の必要性が満たされていなければならない。

  しかし、パンデミックによるオンラインミーティングツールの普及は、この公私の境界線をこれまで以上に曖昧にした。SNSの普及により常時オンライン空間と接続されている感覚はパンデミック以前から存在したが、「いつでも、どこでも」複数の他者と画面越しに繋がれるオンラインミーティングツールによって、本来は公的な視線から守られているはずの家庭という「私的領域」に、公的な視線が行き届くようになった。これは、「私的領域」が本来持っている隠れ家としての機能、つまり生命維持(労働)と休息の場としての機能が無効化されてしまう事態である。「いつでも、どこでも」他者と繋がれる世界は、裏返せば、「いつでも、どこでも」繋がれてしまう世界でもある。時間的・空間的な制約からの解放は、同時に「私的領域」の侵犯を常態化させかねない。他者と「繋がれるのになぜ繋がらないのか」という社会的な要請は、アレントが重視した「私的領域」における休息や内省の権利、すなわち「繋がらない」権利を脅かす。コロナ前と比べてオンラインミーティングが当たり前となった今、私的領域が持つべき隠れ家としての機能はさらに弱まったと言える。

 

4.おわりに

  本稿では、コロナ・パンデミックがハンナ・アレントのいう「活動的生活」にいかなる変容をもたらしたかを論じた。パンデミック下では、生命維持という生物学的な「労働」が最優先され、他者との関わりである「行為」の領域は「不要不急」として危機に瀕した。また、感染対策による物理的な「公的領域」の解体は、オンライン空間への移行を促したが、そこではアレントが重視した「身体性」が欠如している。さらに、コロナ・パンデミックを契機としたオンラインミーティングツールの普及は、これまで以上に公私の境界線を曖昧にし、「私的領域」が侵食されることとなった。このようにコロナ禍は、「行為」の価値だけでなく、「公的領域」と「私的領域」、双方のあり方をも大きく変質させたと言える。

  我々はコロナ・パンデミックをきっかけに、人と人とのつながり方について、これまで以上に問い直さざるを得なくなった。コロナ以前の世界に完全に戻ることはないだろう。この変容した世界において、我々は利便性の高いオンライン空間のなかで失われがちな「身体性」の価値や、他者と直接「現れ」を共有する物理的な「公的領域」の意義を、どのように再び見出していくのか。そして、効率性や合理性とは異なる「行為」そのものの価値をいかにして守り、公私の健全な境界線をいかに引き直していくのか。アフターコロナとなった今もなお、我々は問われ続けている。

 

参考・引用文献