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「弱い責任」から考える医療者のあり方(読書記録『生きることは頼ること』)

 

 

”弱い責任とは、自分自身も傷つきやすさを抱えた「弱い」主体が、連帯しながら、他者の傷つきやすさを想像し、それを気遣うことである。そうした責任を果たすために、私たちは誰かを、何かを頼らざるをえない。責任を果たすことと、頼ることは、完全に両立する。それが本書の主張である。”
(『生きることは頼ること』p198より)

本書は、現代に広く浸透する「自己責任」に代表される「強い責任」から、相互に連帯し頼りあいながら他者への責任を果たしていく「弱い責任」への転換を説いている。

 

この「弱い責任」の理論の基盤になっているのが、本書で大きく取り上げられている3人の哲学者のうちのひとり、ハンス・ヨナスの責任論である。


一般的には、責任は「誰がとるか」が焦点になる。しかし、それは意志という概念がもちだされることによる、ある種の誤謬でもある。


ハンス・ヨナスの『責任という原理』では、「誰の責任」であるかという観点ではなく、「誰に対する責任」であるのか、という観点から責任が説明されている。そして、ハンス・ヨナスの定義によれば、責任は、責任の主体が何を意思しているかに関わりなく、責任の対象と主体の間に力の格差が生じている時に、成立するとされる。つまり、傷つきやすい他者がそこにいたとき、「私」はその他者に責任を負うということである。

 

このハンス・ヨナスの責任論は、医療者にとって我が身を振り返らせるような考え方だと思う。医療者である私の関心領域の一つとして健康の社会的決定要因や健康格差があり、周縁化された人々へのケアの重要性が、社会正義のものとに強調される。

 

時折、周縁化された人々へのケアに対して積極的になれず、自分には関係のないこととして、対応を拒否する医療者も散見される。「どうしてわたしがこのひとのことをケアしなければいけないのか」といわんばかりに。しかし、ハンス・ヨナスの責任論からいえば、その医療者には患者(他者)をケアする責任が生じているということである。しかもそれはどういった患者だからというわけではなく、どの患者においてもそうである。

 

ハンス・ヨナスの責任論は、ある意味で道徳的な側面があるのは否めないが、「誰が責任を負うか」という視点から、「誰に責任を負うか」という視点に転換させるという点で画期的であるように思える。


しかしこの責任論の背景には、「強いもの」と「弱いもの」という視点が暗に組み込まれており、一歩間違うと父権主義に陥ってしまうかもしれない。意図していなくても、自分が他者になんらかの暴力を振るってしまう可能性もある。そういった攻撃性や抑圧性を自分自身が抱えていないかどうか、常に注意しておく必要があることも、ジュディス・バトラーの言説をもとに言及されている。

 

そしてハンス・ヨナスの責任論によると、「私」は、「私」が他者を気遣うという責任だけでなく、「私」がいなくなったあともその他者が気遣われるような状況にしておくことに対する責任も同時に負うとされる。この後者の責任のことを、「存在論的命令(責任)」とよぶ。つまり、自分が他者のケアを抱えきれなくなった時、誰かにそのケアを託す必要(責任)があるということである。


ケアする人は、同時にケアされなくてはいけない。ケアするひとがその責任を一人で抱えて、ケアをしつづけることを求められる「強い責任」の社会では、ケアはなりたたない。ケアが搾取されてしまう。そういった点から、ケアする人は、ケアする人同士でケアされあう必要があると、エヴァ・フェダー・キテイは言う。

 

そもそも、ひとはだれしも一人で生きていくことはできない、傷つきやすい存在である。そういった「弱い」主体がお互いに責任を果たしていくためには、連帯し、頼りあう他ない

 

「強さ」が自然と求められる医療者にとって、本書で提案されている「弱い責任」という責任論は、持続可能な医療のあり方を考える補助線になるかもしれない。