読書記録。
「居るのはつらいよ」は、臨床心理士である東畑さんが、沖縄のデイケアでの体験をもとに、「ただ、いる、だけ」の大切さを、ケアとセラピーの観点から考察した一冊。
「いる」ことを支えてあげられるような居場所づくりに、これから関わっていきたいと思っている自分にとって、学びの多い1冊でした。
本文から引用しながら、「居場所」や「いる」ということ、ケアとはなにかについて、まとめていきます。
居場所、「いる」、ケア
p55
居場所とは「尻の置き場所」(中略)
居場所とは「とりあえず、座っていられる場所」のこと(中略)
弱みを不安にならずに委ねられる場所が居場所
ここでは居場所の定義が書かれてあります。「弱みを不安にならずに委ねられる場所が居場所」とあり、後述されるように、安心や依存がキーワードとなってきます。
p57
僕らは誰かにずっぽり頼っているとき、依存しているときには、「本当の自己」でいられて、それができなくなると「偽りの自己」をつくり出す。だから「いる」がつらくなると、「する」を始める。
逆に言うならば、「いる」ためには、その場に慣れ、そこにいる人たちに安心して、身を委ねられないといけない。
誰かを頼りにできるような安心や依存があるとき、わたしたちは初めて「いる」ことができると書かれてあります。これは感覚的にわかります。
そして居心地悪く、「いる」ことができなくなったとき、取り繕ったようになにかを「する」のもわかりますね。
では、「いる」ことはどういうことかというと、
p209
「いる」とはお世話をしてもらうことに慣れることなのだ。
p317
社会復帰するとか、仕事するとか、何かの役に立つとか、そういうことが難しくても、なお「いる」。それが「ただ、いる、だけ」だ。
そして、
p273
「いる」とは十分にケアされていることによって初めて成立するもの(中略)
ケアは安全とか、生存とか、生活を根底で支えるもの
とあります。
ここで「いる」ということとケアとの関係に踏み込んできました。
ケアとはなにかについて、
p271
ケアとは傷つけないことであるp272
僕らは様々なニーズを抱えていて、それが満たされないと傷ついてしまう(中略)
「傷つけない」というのは「ニーズを満たす」ということ、「依存を引き受ける」こと
とあります。
ここまでをまとめると、
他人に安心できたり依存できたりすることで、はじめてひとは「いる」ことができ、ケアによって「いる」は支えられている。「いる」ことができる場所が「居場所」である、ということですね。
「居るのはつらい」現代社会
しかし、現代の資本主義社会、自立をおしすすめていく社会では、「ただ、いる、だけ」には居心地の悪さがあるという。
p317
そういうこと(社会復帰するとか、仕事するとか、何かの役に立つとか)を超えて「いる」を肯定しようとする「ただ、いる、だけ」は、効率性とか生産性を求める会計の声とひどく相性が悪い。p325
ケアの根底にある「いる」が市場のロジックによって頽落する。ニヒリズムが生じる。
ニヒリズムは外側から僕らに襲いかかり、内側から僕らを食い破った。だから、居るのはつらいよ。
ケアの現場に、市場価値の目がむけられることで、「いる」のがつらくなってしまっている。「いる」ことにどんな価値があるのか? そういった視点は、「いる」や「ただ、いる、だけ」を殺してしまう。
p337
「ただ、いる、だけ」は、風景として描かれ、味わわれるべきものなのだ。
この本を読んで
「居場所」という言葉には様々な定義がありますが、この本の定義でいうなら、本当の意味での「居場所」には、目的は必要ないということですね。
「いる」をただ、「いる」として味わうこと。それを実現するためにはケアが必要であり、そこに市場価値の視点を入り込ませない。
もしかしたら、「ただ、いる、だけ」を支えてくれる、本当の意味での「居場所」をもっている人は幸せなのではないだろうか。
安心できる居場所づくり。お互いに依存できる居場所づくり。目的のない居場所づくり。「ただ、いる、だけ」を支えることのできる居場所づくり。
「いる」ということや「居場所」について、これからも考え続けていく必要があると実感させられる1冊でした。