岡山の家庭医の読書・勉強ブログ

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【読書記録】本の感想を書いていたと思ったら、なんか「暇ができることへの後ろめたさ」の考察がはじまった(「書く習慣 〜自分と人生が変わるいちばん大切な文章力〜」)

本の感想

ここ最近、公私ともに多忙な日々が続いていて、文章を書くことから遠ざかっていました。どうしても時間がかかるし、億劫になる。

 

「『書く』やる気を起こさせてくれるような本がないかな」と探していたところ、こちらの本に出会いました。

 

 

この感想文も、この本にならって、勢いのままに書いてます。

 

内容としては、

 

「世の中に文章を出すことそのものが大切」とか、

「全ての文章は「知るかボケ」前提で書く」とか、

「過去の自分に向けて文章を書く」とか、

 

これまでに他の本でも語られている内容ではあるものの、この著者の体験や文脈で分かりやすく、解説されています。

 

 

自分もどちらかと言うと、「こんなこと、しょうもないだろうな」と思うと、筆が進まなくなるタイプです。

 

誰も読んでいないだろうなと思いきや、実はみんな、ひっそり読んでくれてたりするらしいです。実際、「あの〇〇、読んだよ!」と言ってくれる方もいるので、たぶんそうなんでしょう。

 

 

 

暇ができることへの後ろめたさ

筆が進んできたので、このままの勢いで最近感じていることについて。

 

 

 

ちょっと話がそれますが、ブログもふくめて、こういう課外活動、というか趣味的なことが、最近後ろめたく感じることがあります

 

というのも、実際仕事や私生活面で忙しい状況だけれど、たまに生まれる時間や暇があって、そういう時間に楽しみとか、ちょっと寄り道とか趣味とか、そういうことをしたいし、誰かにその経験を共有したいけれど、「そんな時間があるなら、あのプロジェクトをすすめてよ!」と、誰かに言われるんじゃないかと思ってしまい、後ろめたく感じてしまいます

 

今このブログも、久々にまとまった時間がとれているので書いています。ただ、自分で言うのもなんですが、ここ最近はやっぱり公私ともに忙しいです。時間があっても体力がなくて、その時間を休息にあてないとやっていけません。

 

他人の目とか気にせずに生きていきたいけれど、誰かの迷惑にはなりたくないし、かといって自分の生活を犠牲にして、すべてに全力に力を注げるほど聖人ではないし・・・。

 

あ〜。本当は何も考えずに、何にも縛られずに、ゆっくり時間をつかって読書したい。読みたい本とか、知りたい学問とか、まだまだたくさんある。

旅行もしたい。ゲームもしたい。バドミントンとか、卓球もしたい。

家族と一緒にゆっくりお茶が飲みたい。

 

 

 

・・・ちょっと本音が出すぎてしまいました。まぁ、たまにはこういう記事もいいかも。だれもこの記事を読んでくれないかもしれないし、ちょっとは読んでくれるかもしれないし。

 

 

結局この本に、まんまとしてやられた感はありますね。

 

 

【読書記録】「医療者が語る答えなき世界 -「いのちの守り人」の人類学」

医療人類学者・磯野真穂さんの著書。インタビューを通して、医療者の苦悩や葛藤が描かれていて、人類学的視点から考察されている。

 

特に気になったのは、医学と医療の違い、そして「患者中心の医療」のこと。

 

・・・

p163 「医療者の仕事の根幹は、モノとしての人間を徹底的に標準化することで体系づけられた医学という知を、それぞれの患者の人生にもっとも望ましい形でつなぎ合わせ、オーダーメイドの新しい知を患者と共に作り出していくことにある。」

 

p164 「医療者の仕事は医学を医療に変換すること。

 

まさにこれは患者中心の医療のことじゃないかと思って読み進めると、やはりエピローグにもまとめられていた。

 

p221 「近年いわれる「患者中心の医療」は本人たち自身が主役にならなければ成立しえず、それは私たち自身が自分のカタチをよく見る作業抜きには語れない。」

 

患者が医療者に「命のアウトソーシング(p55)」をするのではなく、患者は自分自身のことと引き受けつつ、医療者は患者とともに考え、患者の生き方を支えていくことなのだろう。

 

 

 

 

桜の苗木を植えるようなお仕事

桜の季節ですね。

桜スポットをいくつかまわってみたけれど、結局自宅近くが1番咲き狂っていて綺麗でした🌸

 

ふと思ったのですが、僕たちがみて楽しんでいる桜並木って、何十年も前の人が植えてくれた桜なんですよね。

 

桜の苗木を植えている人は、その桜が大きく育ち、楽しむまでには何十年もかかる。

 

もしかしたら自分はその桜が大きくなった姿はみれないかもしれないけれど、何十年も先の人たちのために桜を植えてくれている。

 

すぐに結果のでる、もしくはすぐに結果をださないといけない短い時間軸の活動も大切だけれど、桜の苗木を植えるような長い時間軸の活動もやっていきたいなぁ。

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みんながもっと気楽に家庭医療学を学べたらいいのに。

個人的な関心もあって、私は哲学に関する書籍を手に取ることが多いです。

哲学の一般的なイメージといえば、「難解」であったり、「生活に役立たない」など、ネガティブな側面が思い起こされることが多いのではないでしょうか。

 

 

その一方、哲学を日常生活や仕事に活かす・実践に落とし込むような書籍が最近は多く、実際に哲学をビジネスシーンで活用しようとする流れが、ここ数年起きています。

 

 

そんな本を読んでいて、ふと思い浮かんだこと。

 

 

 

家庭医ではない殆どの医師にとって、

疾患の診断・治療といった医学の勉強が臨床に直結して実践的であるとするなら、

家庭医療学は臨床に直結しないような非実践的なもので、知っていても知らなくてもいいような、ある種の教養レベルの認識なんだろうか。

 

 

 

もしそうだとしたらこれって、冒頭に書いたような、ビジネスパーソンにおける哲学を始めとした人文学に対する認識と、似ている気がします。

 

バランスや割合の問題だと思うんです。

 

これは決して、家庭医療学のほうが大切だとか言いたいわけでなく、その医師が働いている場面で必要十分な医学的スキルを持ち合わせておくことが前提の上での話であって、臨床においては、医学も家庭医療学も、どちらも同じくらい大切なものなのだと思います。

 

あえて振り切った言い方をするなら、

家庭医療学が人や社会との関係性を対象にしている学問である点から考えると、

臨床に従事している医療従事者なかで、家庭医療学と無縁であることは決してないということだと思います。

 

 

そうはいっても、日々アップデートされる医学情報をキャッチアップして勉強しているだけで精一杯になる中で、家庭医療学を勉強しようという余裕を持つことのできない方が多いのではないかと。

 

また、わたしを含めて若手医師は、どうしても医学的知識や経験が不足している部分が多く、その点に意識が吸い込まれてしまい、家庭医療学に興味を持つきっかけも少ないのかもしれないです。

 

 

 

もっと気軽に、気楽に、家庭医療学が学べたらいいんじゃないかなと思うんです。

 

そういうツールや書籍がもっと増えたらなぁとも思ったり・・・。

 

哲学を多忙なビジネスシーンに活用していこうとしている流れは、家庭医療学を多忙な様々な臨床現場で活用していこうとすることの参考になる気がしています。

 

そう考えると、殆どの医師にとっての家庭医療学の認識が「ある種の教養レベル」のものであっても、それはそれで興味をもってくれるならアリな気もしてきました。

 

むしろ、家庭医療学という冠を押しつけすぎるがあまり、他領域の医師に煙たがられていないだろうか、と。

「家庭医療学を学ぶのであれば、かくあるべき!」という厳密さは排他的で、損をしている気がします。

 

「こんな考え方やフレームがあるんですよ」くらいの感じで紹介するのがいいのかも。

 

「診療上手になれる!」とか、「外来がたのしくなる!」とか、それくらいのスタンスで、総合診療医や家庭医の先生以外にも家庭医療学を学んでもらえたら、医師にとっても患者さんにとっても、お互いハッピーになるんじゃないかな・・・

 

そんな風な妄想をしています。

 

(こういうことを書くと、「まだまだお前は家庭医療学のキホンすらできていないくせに、何を言っているんだ」とツッコミがきそうですが、それは重々承知しております )

 

 

結局何が言いたいかと言うと、

家庭医療学、楽しいからみんなも一緒に勉強しようぜ!

ってことです。