岡山の家庭医の読書・勉強ブログ

岡山の家庭医のブログです。総合診療や家庭医療、哲学、ビジネス、いろいろ。

岡山の家庭医が2021年8月に購入して読んだ本の一覧

2021年8月に購入して読んだ書籍の一覧です。

引っ越し前ということもあり、書籍の整理も兼ねて、購入数は抑えめです。

今月の一番の収穫は、「コンヴィヴィアリティ」という概念に出会えたことですね。

 

ご参考になれば幸いです。

 

【一般書】

河合隼雄スペシャル 2018年7月 (100分 de 名著)

河合隼雄さんの本を読み始めようかと思って調べてみると、たくさんのおすすめしょせきがでてきて圧倒されたので、「100分 de 名著」から導入していくことに。

 

 

 ●スター・ウォーズ ジェダイの哲学 :フォースの導きで運命を全うせよ

医学教育学会でとりあげられていたので、気になって購入。だいたい「哲学」という言葉がタイトルに入っているだけで、反応して購入してしまいます。

 

●コンヴィヴィアリティのための道具

コンヴィヴィアリティ(conviviality)」は日本語訳で自立共生と訳されており、程よい距離感をもって道具と共に生きるということ。ここでいう道具とは、一般的な道具の定義よりもひろく、自動車などの大きな機械や、それを作り出す工場、そのほかにも医療や教育や政治といった社会のシステムも道具として含まれる。

誤解を恐れずにいえば、道具は使っても使われるな、ということなのかなと解釈しました。現代のわかりやすい例は、スマートフォンSNSだと思います。

コンヴィヴィアリティという概念は、脱成長が謳われはじめた現代にマッチすると感じます。

 

 

 ●新版 論理トレーニング 

 

細田守スタジオ地図の10年

「竜とそばかすの姫」が最高でしたので、細田守さんのこれまでの制作ヒストリーを追いたくなり、購入。アーティストの制作過程や思考過程にふれると、いつもと違う頭を使うので、それだけで楽しいですね。

 

イノベーション・オブ・ライフ ハーバード・ビジネススクールを巣立つ君たちへ 

イノベーションのジレンマ」の著者が語る、ビジネスでの考え方を人生に転用し当てはめてみることで、如何にして人生を善く生きていくかについて語られた本。

時間は資源であり、その時々に、そのときにしかできないことに時間を投資すること。過去や未来にばかり視点をむけず、今を生きること。

 

 

教養としてのギリシャ・ローマ―名門コロンビア大学で学んだリベラルアーツの真髄

 

BRUTUS(ブルータス) 2021年 7月1日号 No.941  「大人の勉強案内」

幅広い分野に渡るトップランナーが、それぞれの視点から「勉強」について語られている特集。永久保存版です。

 

ケアの倫理とエンパワメント

 

 

医学書

総合診療 2021年8月号 メンタルヘルス時代の総合診療外来―精神科医にぶっちゃけ相談してみました。

かなり内容の濃い特集でした。ちょっとまだ咀嚼できていません。

 

藤沼泰樹先生の連載「55歳からの家庭医療」がとても参考になりましたので、内容を一部引用します。

医師像の変容と総合診療(p1058-1061)より

・総合診療の英語表記は「Generalist Medicine」でないか。

 

・未分化な健康問題(「一人暮らしが心もとない」など)へのアプローチを意識的に取り組むことになるのが、総合診療専門研修である。未分化な健康問題は、真正の「Generalist Medicine」の対象である。

 

ポートフォリオは、unlearning(アンラーニング)のプロセスを、作品(artifact)として作り上げるものである。これまで習ったことがなかった枠組みと文体で記述し、自分自身の内的変化や感情を振り返りつつ、総合診療における卓越性を表現させようとするもの。


ポートフォリオに関して、他領域の専門科医師らのもつ違和感
  「感想にすぎない」→ 医師自身の感情も含めた省察のこと
  「客観的・科学的でない」→ 病いや障害の主観的側面、meaning of illnessのこと
  「結論がわからない」→ 医学・医療のアウトカム設定のパラダイムの違いを暗に示している


★総合診療自体が、従来の医師のあり方をunlearningしないとみえてこないものである

 

わたしの考えとして、ポートフォリオ作成の意義は、自身の経験や思考を外在化することにより、自分自身や他者が、その経験や思考を客観的に受け取り、様々な視点で意見を交わすことにより、省察を促すことにあるのではないかと考えます。

 

 

初期研修医・総合診療医のための 小児科ファーストタッチ

 

レジデントのための血液透析患者マネジメント 第2版

 

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コロナ禍における専門医研修への向き合い方について

先日、とあるミーティングでの話題をうけて。

コロナ禍で、自分がどんな心持ちで総合診療専門医研修をおくっているのか、改めて考えさせられました。

 

 

 

2種類の総合診療専攻医がいる

とある急性期病院で働く総合診療専攻医の方々が、日々新型コロナウイルス感染症の対応に追われ、いわゆる「総合診療」らしい研修がおくれていないとのこと。

総合診療専門研修で〇〇をしたくて専攻したのに!」と期待通りの研修ができず、バーンアウトしてしまいそうな専攻医もいるという。

たしかに自分ももし現状のコロナ禍で、やりたいこともできず、最前線の病院で常にストレス環境下にさらされていたら、バーンアウトしてしまうかもしれない・・・。

 

その話のあと、とある先生が仰っていたことに、わたしは妙に納得した。(正確な表現は忘れてしまったけれど、確かこんな話だったはず・・・)

 

「総合診療専攻医には2種類いて、総合診療や家庭医療の醍醐味とされる分野や領域を研修することを目的としている専攻医と、いわゆる総合診療をやりたいとおもって入った専攻医がいる。後者は、枠にとらわれずに様々な実践をおこないたいと思っている。」

 

これをきいて、自分はどちらかというと、後者のタイプだなと思った。いろいろな現場で、その時々で求められることをして、患者や住民にとって少しでもためになれるような実践をする。それで良いなと思っているし、それが良いなとも思っている。

 

 

改めて考えてみると、総合診療医という形でその場所に入って、自分が必要だと感じることや、求められることをやっていくことで、患者も含め、誰かの役に立っているのであれば、ある程度どんな活動でも楽しめるのかもしれない。

 

 

もちろん、自分の中にも総合診療専門研修で経験したいことや、到達しておきたい目標地点はある。だけれど、少し広い視野や長い時間軸で考えるなら、今実践していることの延長線上に、その目標地点が必ずあるのではないかと思う。どんな実践や経験も、自分が掲げた目標に向かって進む一歩になっていると感じられるし、そうなるように少しでも学び取ろうと努力しているつもりだ。

 

 

 

コロナ禍でも同じことが言えるの?

確かに、今自分が置かれている環境は都心と比べて、まだ比較的余裕があるからそんなことが言えるのかもかもしれない。もし感染爆発で医療崩壊している地域での新型コロナウイルス感染症の対応を同じように任されたら、そんなことをいっている余裕はないかも・・・。


だけれど、振り返ってみると、自分も昨年に急性期病院で診療の前線に立っていたとき、苦労や疲労に押しつぶされながらも、何らかのやりがいも感じていたような気がする。実際、現在のコロナ禍でも、新型コロナウイルス感染症診療にもやりがいを感じている(大変だけれど)。

 

 

たとえば、「発熱外来」と名のつく外来は、どこか「コロナか、コロナじゃないか」みたいな外来になりがちである(いやもちろん、ちゃんと鑑別しないとダメなことは承知しています)。

下手すると機械的な診療になってしまうかもしれないし、トリアージだけ行うのであれば、機械にとってかわられてもおかしくないかもしれない。

だけれど、機械的になってしまいそうな診療も、どこか楽しんでいる自分がいる。「楽しむ」と書くと不謹慎かもしれないが、やりがいをある程度感じている。

 

 

それは、今自分に課せられている役割や使命を全うすることで、少しは医師として人の役に立てているんだと感じられるからかもしれない。あとは、機械的に見えるような業務でも如何に効率的に行ってみようかとか、違う視点でみてみたら変わった学びが得られるんじゃないかとか、そんなことを考えたりしている。

 

 

 

 

総合診療医や家庭医ではなく、ひとりの「医師」として

総合診療医とか家庭医といった肩書をもって診療に臨んでいるけれど、正直なところどっちでも良かったりする。

 

総合診療専門研修を専攻しているのは、総合診療医になりたいからじゃない

総合診療医になりたいとか、家庭医になりたいとかではなく、総合的に診療をおこなっている結果、総合診療医といったラベリングがなされるくらいのイメージ。あくまで結果。

 

患者や住民のために、ひとりの「医師」として実践するだけ

 

そんな感じで、本当は名前はどうでもいい。

 

そのときや場所によって求められたり、必要とされたことを実践して、ひとのためになっているのであれば、それはそれでハッピーだし、それはそれで総合診療の研修とも言えるのではないかなと、感じる今日この頃。

 

「なに綺麗事をいっているんだ」と思うかもしれないけれど、実際そんな気がする。

そのために総合診療専門研修をやっています。

 

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総合診療にサブスペシャリティは必須?/ 総合診療は全診療科の知識を網羅しておかないといけない?

ご報告。日経メディカルに寄稿いたしました!

総合診療に関して、学生や研修医の方々からよくきかれる質問に答えております✍

 

・総合診療は全診療科の知識を網羅しておかないといけないのか?

・総合診療にサブスペシャリティは必須なのか?

 

私も学生時代、「もし総合診療をするのであれば、何かひとつ武器となるような専門をもっておいた方が良い」と、耳にタコができるくらい、様々な医師から何度も言われました。

そしてそのあとに決まって言われたことは、「総合診療だけでは食っていけない」とか、「何か武器がなければ生き残れない」といった言葉でした・・・。

 

よろしければご一読ください↓📕📕📕

 


medical.nikkeibp.co.jp

 

 

 

 

精神科のない病院で、うつ病を診ることのメリット

巷ではとあるメンタリストさんの差別的発言が話題となっていますが、今回はメンタルヘルスに関係した記事です。

 

総合診療医として地域の小病院で勤務していると、様々な症状を抱えた患者さんが受診します。はじめから専門的な高次医療機関に行ったほうがよい状況でない限り、「うちは〇〇科はないので診れません」とは言わない、非選択的外来となっています。

 

 

そのなかには、精神症状を中心とした主訴で受診される患者さんも。

 

 

非専門医が診るうつ病

個人が特定されないように色を加えてここに書きますが、先日、胃のあたりの痛みを主訴に中年の男性が受診してきました。

 

食後の胃の痛みということで、1ヶ月位前からつづいているとのことだったので、胃潰瘍なのかなと思いながら話をきいていると、どうも食欲がなく、気力もわかず、だんだんと物事を考えるのも難しくなってきたとのこと。

 

「おや、これはもしやうつ病ではないか・・・?」と私は疑い、DSM-5の診断基準も参考にしながら、いくつかの問診をすすめました。

 

※非専門医によるうつ病診療の資料は、こちらがまとまっています

http://hospi.sakura.ne.jp/wp/wp-content/themes/generalist/img/medical/jhn-cq-kameda-170222.pdf

 

するとやはり、診断基準からはうつ病の診断となり、PHQ-9 (Patient Health Questionnaire-9:https://www.cocoro.chiba-u.jp/recruit/tubuanDB/files/PHQ-9.pdf を使用した重症度判定では、中等度でした。

 

このとき、明らかな希死念慮はなく、躁エピソードもありませんでした。

 

患者さんに、うつ病の可能性が高いことをお伝えし、もし可能であれば精神科で一度診察してもらうのはどうかと提案してみると、

 

「近所に精神科に通院していることが知られると、変な目でみられたりするのではないかと不安が強い。家族にもできれば知られたくないので、胃潰瘍の治療ということで、できればこの病院に通院したい

 

とお話されました。

 

 

精神科のない病院に通院するメリット

なるほど、家族には「〇〇病院の外来に、胃潰瘍の治療で通っている」と伝えるなら、嘘はついていないですね。田舎ならではの「近所の目」や情報拡散力も考えると、地域の小病院のほうが、受診のハードルが低いのも納得です。

 

ここに、非専門医ではありながらも、うつ病を精神科のない病院で診療する強みがあるように感じました。

 

もちろん、重症度が高かったり、希死念慮があったり、躁を疑うような患者さんであれば、専門医に紹介するのが望ましいことは重々承知しておりますが、

 

今回のケースのように、精神科受診へのハードルが高い状況の中で、精神科のない病院でうつ病を治療してもらいたいというニーズが確かにあるのだと実感しました。

 

 

うつ病の半分近くの方がそもそも医療機関に受診しておらず、受診したとしても、はじめは精神科以外を受診される方が多いとのことなので、プライマリ・ケア医のひとりとして、うつ病患者さんへの対応方法を知っておくことは必須ですね。

 

ちなみに、わたしの好きな精神科の本はこちら。